【令和の野球キャリア⑲】21世紀枠でセンバツ出場、イチロー氏が指導に。なぜ、県立高校の監督が12年も無償で野球普及活動を続けるのか?


稲木恵介監督が2014年に前任の三島南高校で野球部員たちと始め、2022年に赴任した富士高校でも継続中の野球振興活動は、すでに50回以上を数える。


園児から中学生までを対象とした独特な目線の活動が評価され、三島南は2021年に静岡県勢初の21世紀枠でセンバツ出場。翌年冬、富士の取り組みに興味を持った元マリナーズのイチローさんが指導に訪れて話題になった。


全国で進む野球人口減少の波は、静岡にも押し寄せている。静岡県東部を代表する進学校で、文武両道を実践する富士にとっても人ごとではない。稲木監督が偽らざる見通しを明かす。


「いつ自分のチームが連合になるか。潰れてしまうか。毎年ヒヤヒヤです」


稲木監督がそう語るのは、富士には特殊な事情があるからだ。


野球部消滅の可能性


静岡から長野にまたがる富士川を境に、静岡は東部と中部に分かれる。交通手段や地形上の影響もあり、富士高校にやって来るのは東部の富士市、富士宮市の子どもたちがほとんどだという。


富士市は人口約24万5000人、富士宮市は同12万6000人。いずれも中学生の選抜チームを有し、それぞれ毎年20選手のうち学力的に上位5%が富士高に来るというイメージだ。稲木監督が説明する。


「うちの部員数は1学年10人程度で、今年の3年生はそういうバランスでした。ところが、1年生は8人。富士宮市の見込みが欠けました。これから中学部活動の地域移行が進み、チーム数が減っていくと、そのなかに学力5%の子が何人いるのか。他地区からの流入はないと考えた時、東部の学力上位5%で野球をやっている子がいなければ、富士高校の野球部もなくなります」


稲木監督が語るのは、中学の野球部を前提とした話だ。なぜなら富士市、富士宮市で硬式野球をしている中学生は、学力的に富士とはマッチしにくいという。あるいは学力的に合っていても、野球の実力が高いと他県の私学に進む傾向がある。


文武両道は確かに学生として模範的だが、考えようによっては理想論という一面も否定できない。早めに進みたい道が定まれば、そこに打ち込むという考え方もあるからだ。


また文武両道は人口の多い大都市や、有名大学の付属校といった名門私立なら成立しやすいが、地方は不利になる。文武両道を掲げても、同じ学校のなかで特進コースとスポーツコースに別れ、“文武別道”が実情というケースも少なくない。


学校の理念は「リーダー育成」


一方、富士が目指すのは正真正銘の文武両道だ。平日は7時限目まで授業があり、土日も練習は半日のみ。塾に通っている部員も多く、稲木監督は勉強と両立できるように考えている。


「うちの部員は中学の部活動と勉強を両立して入学してきた子たちなので、『浪人の可能性もあると腹をくくり、野球だけをやれ』というのはピントがずれています。野球も勉強も頑張りたい子たちですから。ある意味、部活動ガイドラインはピントを合わせるためのものだと思いますしね」


それでも2025年夏の静岡大会では、全16校のシードチームの一つに入った。県内東地区からは5つのシード校があり、富士は唯一の公立だった。その成果に稲木監督は胸を張る。


「シード校のなかで、うちの練習時間は圧倒的に短いと思います。短時間の練習で、やるべきことは何か。コンセプトをできる限り絞り、人間的成長をもって勝負していく。正直結果なんてどうでもいいので、いかに気持ちを持って練習する時間をつくり出せるかが勝負です。そこから、いろんな相乗効果につながればいいと思っています」


富士高校の掲げる理念は、リーダーの育成だ。野球部では限られた練習時間のなか、選手自身が取り組む内容を選択する。自分で考える力を磨き、試行錯誤することが成長につながるからだ。


回を重ねている野球普及活動も、同様の位置づけにある。

野球振興活動を続ける稲木恵介監督


子どもたちに伝える“コツ”


2025年5月4日、富士高校のグラウンドに近隣の3つの学童野球チームを招き、稲木監督にとって通算55回目の振興活動が実施された。


ウォーミングアップの後、3チームの子どもたちと高校生たちが各ポジションに就いてシートノックを受ける。「うまいね」と褒める高校生がいれば、「こうすれば、もっと良くなるよ」と見本を示してあげる選手もいた。


「コンセプトは、少しでもコツをつかんでもらう。『俺、野球うまい』と思えれば楽しくなり、中学でも続けてくれると思います。そういう流れにつながってくればいいなと」


そう語る稲木監督の振興活動には、(1)園児との交流(2)小学生への振興(3)少年野球への技術伝達、という3つの柱がある。取材日の活動は、3つ目を目的としたものだった。


異なる対象に向けて、どのように、どんな目的で活動するのか。稲木監督はそれぞれのポイントを以下のように整理する。


(1)園児


・目線を合わせる

・ボディアクションをはっきり

・言葉えらび

・笑顔

・危機管理(安全確保)



(2)小学生(未経験者)


・遊びであること(またやりたいと思える体験)

・一緒に楽しむ

・その場、その時の工夫

・安全と時間管理



(3)少年野球


・できる喜び(自己肯定感)

・コツを伝達する

・見本(真似る力)

・楽しさを忘れさせない

・高校野球への入口


年代を問わず、いずれも他者とのコミュニケーションで大切になるものだ。上記のポイントを踏まえて野球の楽しさや技術を伝えていくことで、高校生は自分自身への気づきになり、結果として野球競技人口にもつながる。そして、身近な高校生に憧れる子どもたちが増えていく。


以上の循環こそ、稲城監督が活動を通じて目指すものだ。


収入も得ずに普及活動を続ける理由


足かけ12年。なぜ、稲木監督は熱心に振興活動を続けているのだろうか。


「野球人口の拡充は正直、プラスアルファの話です。この活動を通じて視野を広げたり、子どもとの関わり方を覚えたり、人として成熟する。成熟している人と、そうではない人が同じ練習をしたら、前者のほうが中身をよくできるはずですよね。その成長を求めるのが活動の第一目的です。

活動を通じて関わった子どもたちが、『高校生のお兄さんたちはカッコいい』と思ってくれるのは、二次的な効果として得られるものです。そうでなければ、学校教育活動の中で僕らが収入も得ずにわざわざ時間をかけてやるべきものではないじゃないですか」


野球振興活動を行うのは、自分たちの成長のためという位置づけだ。結果、それが野球界や世のためにつながっていけばいい。そう考え、富士高校野球部は独特な活動を続けている。


本連載では富士高校をはじめ、野球界に新たな価値を生み出す選手や指導者、チームを取り上げてきた。

日本の人口は今後ますます減少し、子どもたちの数も少なくなっていくなか、チームスポーツの野球はどんな立ち位置を目指すのか。


時代が大きく移り変わっているからこそ、改めて野球に取り組む価値を見つめ直す必要がある。



※連載「令和の野球キャリア」おわり


(文・撮影/中島大輔)

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