日大三・小倉元監督が語る指導者人生 「三高野球」をアップデートしていった日々


 東京都町田市にある日本大学第三高等学校。通称「日大三高」は、春の甲子園20回、夏の甲子園17回出場を数える甲子園の強豪校だ。

 その日大三高を1997年から率いてきたのが小倉全由さん(66歳)。夏の甲子園で2回優勝を成し遂げた名監督だが、教員としての定年を迎える今年3月をもって、26年間務めた日大三高野球部監督も勇退することを決めた。

 日本大学在学時から高校野球の指導者として活動をしてきた小倉さんにとって、その時間はどういうものだったのか。40年以上にわたって携わってきた高校野球の世界。改めてその指導者人生を振り返ってもらった。


 5月初旬。小倉さんの招きを受け、千葉の自宅に伺った。監督時代は寮に寝泊まりし、部員たちと寝食を共にする生活を送っていた小倉さん。家に帰るのは2週間に1度のことだったため、監督を勇退した今、ずっと自宅にいる時間を初めて過ごしていた。

「まだ慣れないですね。娘なんかには『新入社員と一緒だから、家のルールをひとつずつ覚えないとダメだよ、お父さん』なんて言われています。趣味らしい趣味がないので、これから自分がどうなっていくのかなって思ってね。それが楽しみって言うとおかしいんだけど」

 そう言って笑った小倉さんが、これまで趣味を見つけられなかったのは、それだけ「高校野球の指導者」という仕事に没頭した証ということだろう。


学生時代に踏めなかった甲子園に大学生コーチとして出場


 自身も高校時代、日大三高野球部に在籍していた小倉さんは、受験の末に日本大学へ進学。高校時代に肩を故障したこともあって大学では野球部に在籍しなかったものの「時間が空いているなら手伝いに来てくれ」と打診を受け、学生コーチとして母校での指導者生活をスタートさせた。

「大学に行ったら、女の子と遊ぶつもりだったんだけどね(笑)。でも任された以上は適当にはやれないというのがあったので、グラウンドに出たら一生懸命やりました。大学の授業には行かないこともありましたが、(町田の)グラウンドにはしっかり行ってましたね。いい加減なことを言いながらも、やらなきゃいけないっていう。今思えば俺、結構真面目だったよなって」

 成り行きで始まった指導者としてのキャリア。持ち前の真面目さもあって、熱心に勤めてはいたものの、当時はそのまま指導者を目指すという考えはなかったという。しかし、自身が大学4年の時、名将・小枝守監督に導かれた日大三高は17年ぶりに夏の甲子園へ出場する。高校球児としては踏むことのできなかった甲子園の土を学生コーチとして、踏み締めることとなった。

「自分が高校生のときは、もちろん甲子園に出たくて日大三高野球部に入ったんですが、甲子園に届きそうだという手応えすらなかった。高校球児として、夏に熱く追われていなかったんです。そんな中で学生コーチになって、大学4年の時に甲子園に行って、外野ノックやらせてもらって「ああ、これが甲子園か。甲子園っていいな」ってすごく感じたんですよね」


 その後、そのまま母校のコーチを続けるはずだったが、小枝監督の退任もあって白紙撤回に。急遽、就職浪人となる中、縁あって関東一高(関東第一高等学校)でのコーチ職を紹介され、翌年4月からは同校野球部の監督に就任することとなった。

「よく監督として自分を迎えてくれたなと思いますが、やっぱり日大三高で4年間、学生コーチをやったっていうことが評価されたんだと思います。あとは自分のことを見ててくれた人がいたってことですよね」

 監督就任当初は、日大三高時代の経験をもとに若さで部員たちを引っ張った。しかし、知識も経験もなく、ましてやどうすれば甲子園に行けるのか、その方法論も持ち合わせていない。24歳の青年監督は、甲子園という見えないゴールに向かって、部員たちと共にひたすら汗を流す日々を過ごした。

 

妻に言われた一言がきっかけで一変したチームの雰囲気


そんな中、指導者・小倉全由を目覚めさせるひとつのきっかけを作った出来事があった。

「監督として丸1年が過ぎた3月に女房と結婚したんです。で、女房が初めて合宿所をみた時に『おかしいんじゃないの?』って言ったんですよ」

 小倉さんの妻・敏子さんが「おかしい」と指摘したのは、食堂で部員たちが食事をする光景だった。

「自分が日大三高で学生コーチをしていた時は、食事は畳の大広間で正座で、音も立てず、話もしないで、それこそ修行僧みたいな形で食べさせていたんです。それで、関東一高はテーブルでしたが、同じようにしていたんですが、そうしたら女房が『ご飯って、もっと楽しく食べなきゃおかしいよ。家だったら、その日にあったことを家族と話しながら、楽しく食べるのが食事でしょ?こんな黙って食べさせて、かわいそうに。馬鹿じゃないの』って言われたんです」

 その瞬間は「これが三高野球だ!」と言い返したというが、しばらくすると「確かにそうだよな」と納得する自分がそこにいた。

「それで、次の日から変えたんですよ。そうしたら、チームの雰囲気が明るくなるんですよね。中にも吹き出すやつとかもいるんだけど、それって別に悪いことじゃないなと。自分は『これが日大三高の野球だ』って胸を張って言ったんだけど、そのやり方しか知らなかっただけなんです。伝統ある日大三高で野球をやっていたっていう、プライドもあったと思います。でも女房の一言をきっかけに変えてみたら、チームの雰囲気が変わった。それで関東一高で野球をやっていく中で『"三高野球"じゃなくて、自分で作っていかなければ駄目なんだよな』って、考えに変わっていきましたね」


正しいと信じていた価値観を捨てる。口でいうのは簡単だが、そう決断できる人間は少ない。小倉さんは奥様が発した一つの気づきに蓋をするのではなく、一度飲み込んで考えた上で納得して、今まで慣例のように行ってきたことを捨て去った。元々、変化することに抵抗感を持たないという小倉さんだが、固定観念に囚われない柔軟な指導姿勢に踏み出す原点は、この奥様の一言が大きなきっかけとなったように思えた。


関東一高の選手から学んだ「型にハマらないこと」


 もうひとつ、指導者・小倉全由を目覚めさせるきっかけがあった。それは、実際の技術指導に大きな影響を与える気づきだった。

「自分は日大三高で高いレベルで野球をやっていたという思いがあったんです。それに比べれば、甲子園を目指しているとはいえ、関東一高は大して教わっていなかったと思います。でも、バーンって初球にホームラン打ったりするんですよ」

 監督就任当時、自らの指導方針がまだ確立できていなかった小倉さんは、日大三高時代の教えを元に指導にあたっていた。しかし、当時の日大三高の選手たちからは、ホームランが出ていなかったのだという。

「特に右バッターは出なかったですね。右打ち右打ちって言われていて、ランナーが二塁にいたら、セカンドゴロで『ナイスバッティング!』なんですよ。セカンドゴロを打てば褒められる。そうするとバットを思いっきり振らせてもらえなくなるので、バットのヘッドが使えなくなる。バッティングが伸びていかないんですよね。」

 それは小倉さん自身も選手時代に体験していたことだった。

「1年からベンチに入るような選手だと、型に嵌められてしまって、伸びなくなっちゃう。『中学の時はあんなに打てたのに、俺、もう飛ばないわ』って、バッティングが楽しくなくなっちゃったんですよね。そういう部分に対しては不満をもっていたところはあったんですけど、やはり"三高野球"っていうのがあったんですよね」


 そんな固定観念を吹き飛ばしたのが、関東一高の野球部たちが見せた飛ばせるバッティングだったのだ。

「関東一高に来て選手たちを見たら、ブンブン振ってホームランが出るんですよね。『三高の選手たちよりここの選手たちの方が、思い切りがよくてホームランが打てるじゃん」って思って。そこで、自分の野球に対する考え方が180度変わったんですよね。自分が現役の時には、ランナーがいる時には、右打ちするために真ん中から外のボールを待っているわけですが、そうすると真ん中から内に入ってくる甘いボールを振りにいけないんです。いいピッチャーだったら、インコースも付いてくるし、そのあと外に逃げる変化球を投げられ、追いかけて空振りで終わっちゃう。ランナー2塁で何が一番ヒットの確率が高いかって言ったら、甘いボールを積極的に打たせることだなって」

無意識のうちに身に纏っていた『三高野球』。その見えない鎧を脱ぎ去り、何も持たざるものになったことで、小倉さんは自らの指導者像を確立していくことになった。監督としてのキャリアを母校・日大三高ではなく、しがらみのない関東一高でスタートしたことも、まっさらからスタートした小倉さんにとってはプラスだったかもしれない。


良縁に恵まれた若手指導者時代と良いものを取り入れる勇気


「学生コーチとして4年間、ノックとか打っていたわけですが、指導理論とかは何も持ってなかった。自分は、まっさらだったんですよ。それが、良かったんだと思うんですよね。監督としての経験が全くないので、自分で結果を出していかなければいけないじゃないですか。だから、いいと思ったことはどんどん取り入れていきましたね。あと、すごく恵まれていたのは、関東一高の理事長さんが、東大で監督をやっていらした平野(裕一)さんや、法政大学の五明(公男)監督に会わせてくれたんです。法政時代の江川(卓)を見てきた五明さんには『速球を打つには、正しいスイングを作ること。そのためには緩いボールをしっかり引き付けて打て』とアドバイスをいただきました」

 その話を聞くまでの小倉さんは速球対策として、打撃投手を2、3m打者に近い位置から投球させて、打撃練習を行っていたという。

「『それだとたまにしかストライクが入らないだろう?それは打っても出会い頭だ』って、言われたんです。正しいスイングじゃないよと。『まだできていない選手には、基礎を作らないと駄目だよ』と教わって、それから緩いカーブ、ボールを引き付けて打つ練習をやるようにしたんですよ。まずスイングを作らないと行けないと言われて『あ、その通りだな』と思って、すぐに取り入れたら、やっぱり関東一高の選手が打つようになったんですよね」


良き縁に恵まれ、実績のある有識者のアドバイスを、監督として駆け出しだった時代に聞くことができた小倉さん。何も入っていなかった自らの引き出しに、良いと思ったものをどんどん詰め込んでいくことが、結果的に指導者・小倉全由の土台を作り上げていくことになった。


記事へのコメント

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柳田育久

固定観念にとらわれず、そのチーム、選手に合った指導を心がけておられたことがよくわかりました。

西川 謙吾
西川 謙吾

小倉さんの指導方法には以前から興味があり雑誌など読ませて頂きました。今年から甲子園の解説もされるようになり、ご自身のことを”自分”と表現されるのが何か人柄がうかがえて良いなと思っています。これからのご活躍も楽しみしています。