桐生が輩出した“各世代日本一の名将”が集結!高校からプロまでの日本一監督たちが語り継ぐ栄光へのストーリー


8月23日、桐生市内で「各世代日本一の名将対談」が行われた。


高校・大学・社会人そしてプロと、各カテゴリで日本一に輝いた監督たちが集結。


日本一にまつわるエピソードから、球都桐生の祖でもあるあの名将の話など、球都桐生の歴史が語り継がれる時間となった。


(文:白石怜平、写真提供:球都桐生プロジェクト推進協議会)


3年目を迎え、進化を続ける「球都桐生ウィーク」


本イベントは、桐生市で8月23日〜9月10日まで行われた「球都桐生ウィーク2025」の一環として開催された。


桐生市は市内6校中5校が甲子園へ出場した実績があり、今回のテーマでもある、各カテゴリにおける日本一監督を輩出するなど、市内のみならず日本の野球史に刻む功績を残してきた。


“野球のまち”として歴史が築かれ、そして脈々と受け継がれていることから、「球都桐生」という称号が定着した。


また、「球都桐生ウィーク」は市が推進する公民連携プロジェクトである。2022年度に「球都桐生の日(9/10)」が制定され、翌年からスタートしている。


初年度の23年にはこの年にワールド・ベースボール・クラシックで日本を世界一に導いた栗山英樹氏によるシンポジウムや、「東京六大学野球オールスターゲーム2023 in桐生」を関東初開催。


昨年度は川淵三郎氏(公益財団法人日本サッカー協会相談役)が登壇したシンポジウムなどに加えて、日本野球聖地・名所150選に認定された新川球場の跡地である新川公園で「侍ジャパンBaseball5代表」と関東選抜によるエキシビジョンマッチも開催した。


そして3年目を迎えた今年度もさらに進化を遂げている。


1978年春、桐生高甲子園ベスト4の原動力となり、26回連続無失点記録を打ち立てたエース・木暮洋氏と、王貞治氏以来の2試合連続本塁打を放った阿久沢毅氏による特別対談を開催。


球都桐生ウィークの初日、2021年に閉校した桐生南高校の校舎施設の一部をリノベーションし「球都桐生歴史館」が新たにオープン。桐生野球の歴史と未来をつなぐシンボルが誕生した。


さらに、大人気YouTubeチャンネル「上原浩治の雑談魂」の公開収録や、累計発行部数4,000万部を超える国民的人気漫画「ダイヤのA」の主人公・沢村栄純投手のモニュメントがJR桐生市に設置されるなど、「桐生ブランドの認知拡大」を図る様々な取り組みを起こしている。


8月23日にオープンした「球都桐生歴史館」



桐生の甲子園優勝監督が今も球児に伝えている“教訓”


今回は歴史館がオープンしたことを記念し、桐生のみならず日本野球の歴史に名を刻む桐生にゆかりのある名称たちが一堂に会した。


第一部は、群馬県そして桐生市に初の甲子園優勝をもたらした福田治男氏(桐生第一高前監督、現利根商高監督)のトークショーからスタート。


この日が甲子園決勝の日でもあったことから、特別にイベントの“先発”を務めた。話題は中心はやはり99年の全国制覇についてのエピソードに。


当時の戦い方について、「失点をとにかく防いでいく。 バッテリー中心に点を与えないように守っていこうと。 それだけだったと思います」と語った。


守りの野球で桐生に優勝旗をもたらした福田氏(写真右)



その言葉通り正田樹投手(元日本ハム他)を軸に守りの野球を展開し、大会全6試合の合計でも6失点、うち3試合で完封勝ちを収めた。


99年を含め春夏計15回の甲子園出場を果たしている福田氏。初出場したのが91年春で、以降大舞台の経験を重ね得たことを、今も球児に伝えているという。


「舞台が大きくなるにつれて、選手が普段と違う動きをするとか、違う考え方をする。『これまで通り普通にやってくれれば』といったことも多々ありました。


勝利というのは、日頃の練習がすべてだと思います。私が今でも高校の指導を続けている中で伝えているのは、『練習は向上心を持って、試合に入ったら平常心を持って』臨むことだと。


練習では自分にいい意味でプレッシャーをかけながら、向上していく。試合に入ったら、常に平常心で臨む。焦らない・ 力まない・そして恐れない。こういったことを選手に言っています」



それぞれの名将が明かす日本一へのきっかけ


第二部には、桐生が誇るプロ、社会人、そして大学の日本一監督を経験した渡辺久信氏(元西武監督)・川島勝司氏(元日本楽器※現ヤマハ監督)・前野和博氏(元東芝監督)・河原井正雄氏(元青学大監督)が登壇。


渡辺氏は、西武監督就任1年目の08年に日本一を獲得したエピソードを披露。就任時は前年5位に沈んだチームからの再建を託されたところからトークはスタートした。


そして、渡辺氏の話題で最も盛り上がったのが日本シリーズの裏話。


第4戦で147球の熱投で完封勝利し、王手をかけられた第6戦では中2日でリリーフ起用し、5回2/3を無失点に抑える投球でシリーズMVPを獲得する岸孝之投手(楽天)と交わしたあることを明かしてくれた。


「岸には優勝の可能性が見えてきた時に、ポストシーズンを考えると連投や肩肘が張っている状態で投げなければならない場面が来ると思ったので、8月終わりのホークス戦で『今日は球数多めに投げてみるか?』と打診したんです。


岸が『やります!』と言ってくれてその試合で171球投げたんですよ。今では考えられない球数なんですけども、この先ベストではない状態かつ勝負のかかった機会で投げる機会が出てくるので、今からやっておこうかと。結果、日本シリーズで彼は大車輪の活躍をしてくれました。


これでもし岸が怪我でもしたらと叩かれたかもしれませんが、40歳を超えた今でも現役であれだけ投げていますから(笑)。第6戦目は『岸じゃなかったら抑えきれないな』と思いましたし、当時の話を今でも彼としますよ」」


岸投手の活躍は渡辺監督による先を見据えた起用から生まれた



続いては河原井氏。青学大監督時代の93年と96年に2度の大学日本一へと導き、特に96年には当時社会人野球の日本選手権優勝チームと対戦した「全日本アマチュア野球王座決定戦」も制し、アマチュア日本一に輝いている。


その原動力になった、未来の鷹の主砲にまつわる縁を披露した。実は、そこにも桐生の繋がりが関係していた。


「現ソフトバンクの監督をしている小久保裕紀が2年生の時(91年)に、我々がヤマハへ遠征に行ったんです。当時監督がここにいらっしゃる川島さんですよ。そしたら私に言いました。


『小久保っているだろう?ジャパンの練習に呼ぶぞ』と。まだ試合に出ていない時ですよ。


というのも、中央大の宮井(勝成)監督が星林高時代に小久保を獲りに行っていたそうなんです。それで知っていてくれていたんです」



小久保はその後92年のバルセロナ五輪で日本代表入り。周りが全員社会人野球の選手という中、学生では唯一の代表入りだった。

この活躍がさらに青学大そしてホークスで共に黄金時代を築く選手が加入することになる。


「五輪で小久保の姿を当時テレビで見ていたのが、國學院久我山高の井口(資仁)ですよ。彼は本当はすぐプロに行くような選手でした。


でも彼の方から『青山学院で野球をやりたいです。自分もオリンピックに出たいです』と言ってくれたんです」


青学最強ラインの形成には桐生での縁があった



名将を育てた“親父”への感謝


最後に球都桐生を語る上で欠かすことのできない、“名将にとっての名将”の話題へ。その名将とは、旧制桐生中時代から桐生高を率い、春夏計24回もの甲子園出場に導いた稲川東一郎監督である。


ここでマイクを持ったのが川島氏と前野氏。高校時代に直接稲川監督の教えを受け、1987年の都市対抗野球決勝では監督として直接対決もした2人は、“親父”と呼ぶ稲川監督との思い出や印象を語った。


歴史館に展示されている稲川東一郎監督の写真やスコアブック



東芝の監督として就任一年目の83年に都市対抗野球を制覇するなど、在任5年で3度同決勝へと進めた実績を持つ前野氏は、グラウンドでかけられた言葉が印象に残っているという。


「野球で行き詰まったりするときがあると、稲川の親父が『お前何やってんだよ、たかが野球じゃないか』ということを、いつもおっしゃっていました。


たかが野球だけども、されど野球なんだという話もされていました。選手がちょっと悩んでいるなとか、引きずっていると見えたら、声をかけていただきましたね」


たかが野球・されど野球と教わった



稲川監督が語り継がれている数々の伝説の一つが、対戦相手となりうるチームの試合に選手を派遣しスコアを記録する“先乗りスコアラー”を当時から導入していたこと。


スコアから見たデータを元に采配を振るっていた稲川野球に、川島氏も自身の監督像の構築に大きな影響を受けていたという。


川島氏は、日本楽器(ヤマハ)の監督として史上最多となる都市対抗3度の優勝を誇る。さらに88年ソウル五輪・96年アトランタ五輪では日本代表の監督を務めるなどアマチュア球界発展に貢献し、21年に野球殿堂入りを果たしている。


「インサイドベースボールというんですかね、頭を使ってやる。工夫をした野球というのが稲川さんの特徴でした。


突出した戦力がなくてもチーム全員の力を活用して効率よく守り、点を取る。そういう野球に熱心に取り組んでおられました。


野球を勉強し、選手にそういった意識を持たせて鍛えていく。それが、桐生高校の強み、稲川野球の強みです。


まさに工夫の人でしたし、私自身も後々参考にしました。近くで見てそう感じてましたから。(稲川監督の写真パネルに向けて)親父ありがとう!って心から思っています」


川島氏の監督像をもつくりあげた



約2時間にわたり行われた特別対談は大盛況のうちに終了。桐生が生んだ名将たちが原点の地で再び栄光たちを蘇らせ、確かに未来へと語り継がれた。



(おわり)


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