選手たちと“ともに”野球に携わる。審判員として感じ続けている魅力(新潟県野球連盟・福原昌宏)

 

 物事を始めるキッカケは人さまざまだ。野球に欠かせない審判員を務める人たちも、そのはじまりはさまざまである。今回ご登場いただいたのは、新潟県野球連盟に所属する福原昌宏審判員。試合を進行する立場である審判員としてのキャリアを始めたキッカケ、さらには審判員の魅力について語ってもらった。

さまざまなカテゴリでさまざまな野球に携わる

 夏の風物詩のひとつである甲子園大会が終わりを迎え、季節は秋へ。高校野球においては新チームが始動し、早くも秋の大会が行われる時期だ。高校野球に限らず、全国各地、さらにはさまざまなカテゴリーにおいて試合が行われる活発な時期である。実戦という意味では冬に突入すれば機会は減るが、いまはまだまだ野球シーズン真っ只中と言って良いだろう。

 新潟県野球連盟に所属の福原審判員も、“忙しい秋”を過ごしている。前述では「新潟県野球連盟」と記載したが、正式に言えばJABA新潟県野球連盟、新潟県高野連、新潟県野球連盟(軟式)と県内の連盟にそれぞれ所属しているのが実態だ。多くの審判員がこのような形ではあるが、夏の繁忙期は高校野球の甲子園予選に携わり、落ち着くことなく軟式野球や練習試合などの別のカテゴリーに足を運ぶ。シーズンオフまでは、あと一息、というところだ。



(写真:本人提供 右から二人目の球審 U15アジア野球選手権での一枚)


「私自身はいま、仕事の関係で東京にいるんです。それでも地元の新潟の連盟に所属し続けていまして、週末は新潟に帰って審判員をしています。新潟県に育ててもらったという思いがあるので、辞められないなと思っています」

きっかけはケガから。それでも「野球に携わりたかった」

 新潟県生まれ、新潟県育ち。自身も県内の高校の野球部で甲子園を目指した元球児だ。高校卒業後は就職のために一時地元を離れたが、転勤で再び新潟へ。たまたま職場に審判をしている人がいたこともあり、誘われる形で審判員生活がスタートした。

「元々、審判に興味があったんです。最初のキッカケは、昔はオフシーズンの定番としてよくやっていた、珍プレー好プレーのようなテレビのバラエティ番組で審判特集が組まれていたのを目にしたことでした。その頃から興味はあったんですが、さらに自分は高校3年時に肩を怪我してしまったこともあって、プレーを続けるのが難しくなりました。それでも、野球というスポーツが大好きだったので、なんとか野球には携わり続けたいと思っていたんです。なので、地元に戻ったときに『一緒に審判員をやろう』というお話しをいただいて、自然とはじめることになりました」

 元々の興味と自身の怪我、さらには転勤先の同僚であった“先輩”審判員の存在という3つの要素が重なって審判員に。そこからいままで20年近くのキャリアを積み重ねている。

この続きを見るには

この記事の続きは 会員登録(無料)が必要です。
会員登録(無料)が 完了するとお読みいただけます。

下記ボタンより登録してください。

記事へのコメント

  • シェアする