(提供:戸田優輝)
Homebaseでは、様々な選手や指導者を取材する機会があるが、今回はその中でも異彩を放つ経歴を歩む選手に出会った。東京六大学野球から社会人野球の名門を経て、独立リーグへ。その後、再度社会人野球の扉を叩き、今では最年長選手としてチームを引っ張る。経歴だけ辿っても思わず興味を惹かれるのが現在、社会人野球の三菱自動車倉敷オーシャンズでプレーする矢部佑歩だ。野球を追求してきたように思えるその経歴の中で矢部はどのような考え方でどのような練習をしてきたのかー。野球人生を振り返りながら、今のスタイルに繋がることとなった2人との出会いについて話してもらった。
小学生時代から東京六大学野球でプレーしたいと考えていた矢部は、中学受験を決意し、立教新座中に入学。系列の高校の野球部での指導経験がある監督が率いるチームは、当時は厳しい練習でも知られ、エースとして活躍し関東大会にも進出した。高校大学へは、内部進学ということもあり、受験勉強はほとんどなく、中学野球引退後はすぐに硬式ボールでの練習に取り組み、高校進学時には特に違和感なく取り組めたという。立教新座高校時代は1学年上に、当時プロ注目だった岡部賢也選手が所属し、2年夏には埼玉県準優勝を経験したものの、3年時にはチームとして特に目立った成績を出せなかった。同校の野球部の体制は珍しく、立教大学に通う同校OBの大学生が野球部の監督となり、指揮をするという体制であった。そのため、高校野球によくある『これをやれ!』というような指示はあまりなく、主体性を持って取り組めというスタンスだったという。
「練習は、自分で考えてやっていいよと言われていました。成長できる環境に置かせてもらっていましたが、その頃の自分には『自分で考えて練習に取り組む』には知識がなさすぎました。」
矢部が高校生だった2008年は、リアルな友達とのネットワークが多く、今のようにYoutubeやSNS上に様々な知識が転がっているような状況ではなかった。そんな中プロ野球選手などの動画を見ては、「ここを真似してみよう。」「走り込みが大事という人が多いから走り込みを増やしてみよう。」と入ってくる情報をとにかくやってみるという試行錯誤を繰り返した3年間だったという。
「今思えば、当時はトレーニングなどの知識もなく、がむしゃらにやった結果、うまく噛み合ってなかったなと振り返って思います。中学の仲間も多く、中学の軟式野球部の時のような点を取られない「エース矢部」。その期待に応えきれず、自身の理想像とのギャップに悩まされた高校時代でした。」
立大時代は、ひたすら試行錯誤の期間だった(提供=戸田優輝)
環境を与えてもらっていたが、うまく活かせられなかった
立教大学(以下、立大)に進学後、強豪校から進学してきた同期の選手の野球への姿勢を見て、考えを改めたという。
「自分で考えて取り組むという基本的なスタンスは変わりませんでしたが、強豪校の選手の意識には衝撃を受けました。一つ一つのプレーへの意識など、野球で上に行くためには今の考え方ではダメだな。と感じました。その後は、自分だけで取り組むというより先輩に指導を求めたり、トレーナーや外部の方など可能性があることには、アドバイスを求めていきました。」
がむしゃらにやっていた高校時代に比べ、周りへのアドバイスも聞くようになり、力はつけてきていた実感はあり、プロへの意識も強くなっていたものの、度重なる怪我もあり、4年間で1勝を挙げるのみという苦しい期間となった。しかし、社会人野球・日立製作所(以下、日立)から声をかけられ社会人でも野球の世界に踏み入れることになる。
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