【スポーツマンシップを考える】ルールとの向き合い方を考える(後編)

(前編を読む)

ルールを守れば十分か

 

ゲームは、スポーツにおいて最も重要なシーンとなる。このゲームという遊びをどのように愉しむかを決めるのがルールである。

そのために、以下のような要素を盛り込みながら、ルールが定められていることは前回のコラムで述べたとおりである。


①公正性・共通化(公平な条件を整える)
②安全性・非暴力(暴力を防ぐ)
③困難性(難しさを愉しさに)

 

しかしながらスポーツには、ルールには明記されていなくてもとるべき行為が存在する。

 

たとえばサッカーでは、プレーヤーがケガをして倒れた際に、ピッチ外のドクターやトレーナーなどを呼び入れることもふまえて、一旦ボールをピッチ外に蹴り出してプレーを止めるケースがある。

そしてその後、スローインで試合を再開する際には、元々ボールを保持していた側、すなわちボールを蹴り出した側にボールを渡すことが、サッカーにおけるマナーのひとつとして一般的になっている。


 「選手がケガをした際は、ボールをピッチ外に蹴り出してプレーを止めること」

 「ゲームを再開する際には、スローインしたボールを相手に渡すこと」

 

これらはルールブックに記載されているわけではない。それでも、負傷者の存在がゲームを安全に愉しむためには妨げとなること、選手がケガをしているのに見て見ないふりをするのは公正とはいえないこと、サッカーというゲームを安全に愉しむという前提を理解すれば、これらの行動が正当であることは自然に判断できるはずだ。

このような慣習やマナーはルールに書かれていないが、互いに気持ちよくスポーツを愉しむために習慣化されているのである。

 

野球の世界にも、メジャーリーグや国際ルールの中で「沈黙の掟」と呼ばれる「アンリトンルール(unwritten rules)」が存在する。ごく一部ではあるが、たとえば以下のようなものである。


・大量リードした場面で、盗塁をしてもカウントされない

・大量リードした場面で、ボールカウント3-0後の球を強振してはならない

・大量リードした終盤に、セフティーバントをしてはならない

・ホームランを打った後にバットを大きく放り投げたり、走塁中に相手を侮辱したりしてはならない

・相手投手がノーヒットノーランを続けているときにバントヒットを狙ってはいけない

 

野球では個人記録でも競い合う。盗塁王を目指してタイトル争いをする選手などは、どのような試合展開であっても一つでも数字を増やしたいもの。

大量リードの試合における盗塁はオフィシャルなルールで禁じられているわけではないが、大きく勝っている側が必要以上に相手を侮辱しないということが不文律となっており、それを破れば、相手からの死球といった報復もありえる。

 

2008年以降、日本においてもMLB同様に、プロ野球では大量点差で盗塁した場合、記録されないことをプロアマ合同の日本野球規則委員会の中で決定した。守備側の無関心度合いを判断基準として、公式記録員が決めることになっている。

 

一方で、試合の結果はゲームセットの声を聞くまでわからない以上、最後の最後まで全力でプレーしない方が失礼だという考え方もある。

とくに、日本における高校野球のように、トーナメント型で一発勝負の試合であれば、得点もとれるだけとりたいと考えるのも当然であろう。事実、大量点差からドラマチックな大逆転を果たしたケースも枚挙にいとまがない。

 

伝統や慣習も時代によって変化していくものであり、状況や環境によっても判断が異なるというのが事実である。


みんながやっているから、はNG

 

ゲームで大切にすべき精神に反していながら、「それもスポーツだ」、「これがゲームだ」と開き直り、言い訳することもある。

そのようなときこそ、冷静にその事象を客観的に考えてみる必要がある。「確かにその行為はゲームでよく行われているが、実はよくないことなのではないか」と客観的に俯瞰してみるといい。

 

プロ野球のシーズン終盤、ポストシーズンに向けて順位が決定した後の消化試合などでは、もっぱら個人タイトルに興味関心が移る。

自チームの選手にタイトルをとらせるために、タイトルを争う相手チームのライバル選手に対して、意図的にフォアボールを与えて敬遠するというケースもある。勝利のために戦術的に止むを得ない場面でもなく、ランナーなしの場面から敬遠というケースもある。


 「みんながやっている」

 「昔から当たり前のようにしている」

 

そのような声も聞かれるが、それは行為を正当化する理由にはならない。スポーツマンシップという観点で、スポーツやゲームを、また、相手やファンを尊重するという視点に立てば、ゲームの勝敗と無関係な故意四球は決して褒められたものではないといえるだろう。


 「そうした思考は、タイトルの重要性を分かっていない」

 

そういう考え方ももちろんよく理解できる。しかし、そのようにして獲得したタイトルが、本当に価値のあるものといえるだろうか。

本来「タイトル」は素晴らしく栄誉のあるものだが、そういうタイトル争いを続けていれば、結果的に自分たちでその価値を貶めることにつながりかねないというリスクも意識すべきだろう。

 

自分がゲームでどのように振る舞うかが、将来のプレーヤーが新たに学ぶべき伝統になっていく。参加者すべてが、そのスポーツの伝統を担う。その責任を負う一員であることを認識し、自分たちの行動を自省することが肝要だ。「みんながやっているから」という言い訳がいかにカッコ悪いかを私たちは自覚すべきである。


ルールを守る、ルールを変える、ルールをつくる

 

決められたルールを守ることは、スポーツに参加するための前提条件である。ルールを守りたくないなら、そもそもスポーツをしなければいい。

仮によくないルールだとしても、正当な手続きを経て決められたルールであれば、私たちにはそれを遵守する義務が発生する。ルールを尊重できない人にスポーツを愉しむ資格はないのである。

 

しかしながら、もう一歩踏み込み、より高い視座でスポーツを理解することが大切になる。それは、ルールを守るだけでなく、ルールを変える、ルールをつくるという発想をもつことも必要だということである。

 

たとえば、もしルールが原因で、多くの人がスポーツを愉しめない状況なのであれば、より愉しめるようにルールを変更する必要がある。さまざまなルールが、時代の流れによって変化している。ルールは変わるべきものであり、変えるべきものなのである。

 

ルールは天から与えられたものではなく、プレーヤーがスポーツを愉しめるように人間がつくり出したものである。

私たちは、さまざまな立場の意見を尊重しながら、より多くの人がよりよくゲームを愉しめるように、どのようにしたらいいかを熟考し議論しながら、よりよいルールを制定し、よりよいルールに改正することがつねに求められる。

ただし、悪いルールだからといって守らないのは決してよくないことであり、あくまで適正な手続きによってルールを定めていくことが必要となる。

 

子どもたちにとって大切なのは、必ずしも大人と同じルールでプレーすることだけではない。野球においても、ボールの大きさ、塁間の距離、イニング数などが大人と異なるのは、それぞれの年代で野球というスポーツをよりよく愉しむために施されたルールである。

 

子どもたちが野球を愉しむために、実はもっと工夫ができるかもしれない。そして、より愉しむための工夫を子どもたちとともにいろいろと考えるのも、いい学びの機会になるはずだ。

さらにいえば、私たちの幸福を担保するための法律をつくる役割をもつのが国会であり、その国会で実際に法律をつくっていく国会議員は選挙によって選出されるからこそ、スポーツを通した学びによって、子どもたちが「選挙に行き、投票すべきである」ということに気づくきっかけになることも期待できるかもしれない。

 

ルールを守ることに全力を尽くす姿勢だけでなく、正当な手続きを通してよりよいルールづくりをする立場の視点をもってスポーツに参加する意識も、スポーツマンにとって欠かせないものなのである。


中村聡宏(なかむら・あきひろ)


一般社団法人日本スポーツマンシップ協会 代表理事 会長

立教大学スポーツウエルネス学部 准教授


1973年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。広告、出版、印刷、WEB、イベントなどを通してスポーツを中心に多分野の企画・制作・編集・運営に当たる。スポーツビジネス界の人材開発育成を目的とした「スポーツマネジメントスクール(SMS)」を企画・運営を担当、東京大学を皮切りに全国展開。2015年より千葉商科大学サービス創造学部に着任。2018年一般社団法人日本スポーツマンシップ協会を設立、代表理事・会長としてスポーツマンシップの普及・推進を行う。2023年より立教大学に新設されたスポーツウエルネス学部に着任。2024年桐生市スポーツマンシップ大使に就任。

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