Spirit Bonds 宮之原健 (前編) 「そう思えたことにワクワクした」瞬時に湧いたBaseball5への情熱の理由


日本を代表するBaseball5プレイヤーの一人である宮之原健選手。


22年には日本代表としてアジアカップやワールドカップの舞台に立ち、今年1月の日本選手権に出場した「Spirit Bonds」の代表としてチームを牽引している。


日本でBaseball5のチームが結成され始めた頃から参戦し、フィールド内外で存在感を放ってきた。その原動力は、自身の持つ情熱とBaseball5の持つ可能性が繋がったものからだった。


本編では、全2回にわけて宮之原選手の特集をお送りする。


(取材 / 文:白石怜平、以降敬称略)



野球引退直後、「本腰入れてやりたい」と即決


宮之原は野球選手としてキャリアを積んできた。高校時代は名門・日大三高で副主将を務め、3年時の2011年には夏の甲子園で全国制覇を経験。


東京学芸大学を経て、16年から21年までの6年間はBCリーグ・福島ホープス(16年〜17年)と埼玉武蔵ヒートベアーズ(18年〜21年)でプレーした。


21年シーズンをもって野球選手としては区切りをつけ、次の活躍の舞台としてBaseball5を選んだ。それは、世界を代表するあの選手からの連絡がきっかけだった。


「21年の11月ごろに、六角彩子さん(5STARs)から直接連絡をいただきました。『一緒にBaseball5を盛り上げていきませんか?』と」


引退表明をしたのが10月中旬だったことから、まだ1ヶ月経過していないタイミングでのオファー。女子野球で今も現役の六角とは、以前自主トレを共に行った間柄だった。


互いの活躍をSNSなどを通じて知っていたことから、「六角さんのこれまでの経歴や活動を見て『すごい、カッコいいな』と思って見ていました」と尊敬を語った宮之原。


また、連絡を受けたのが自身が引退したとほぼ同時に、5STARsが立ち上がったタイミングでもあった。競技人生と共にチーム活動もスタートさせることになった。


「六角さんと村山(智美)さんが2人で結成した時期でしたので、『一緒にチーム活動も考えながらやっていきたい』という話になりました。

練習場所をどうしようとか、いつ活動しようとか、本当にゼロからのスタートでした」


Baseball5のキャリアを5STARsでスタートさせた(本人提供)



なお、宮之原自身はこれまでずっと野球の道を邁進していたことからBaseball5をプレーしたことはなく、「以前に記事を見たことがあってぼんやりとした記憶にあったくらい」だった。


しかし情報を調べながら競技を知れば知るほど、奥底にあった熱い想いが一瞬にして沸き起こったという。


「この競技の可能性を感じてすぐに”本腰入れてやりたい”とすぐ自分の中で決めるものがあって、強い気持ちとともに2022年をスタートさせました」


Baseball5への可能性を感じ、すぐに挑戦を決意した(本人提供)



ではその想いはどこから沸いたのか。ルーツは前年までプレーしていたBCリーグ時代にあった。


「私自身、ベアーズにいた最後の3年はチームのキャプテンや選手会長もさせてもらいました。その間私は地域の方や子どもたちと共に、野球をどう盛り上げていくかを考え続けていました。


オフシーズンになればそういった方たちを巻き込みながら、『スポーツを通じて周りの方々と一緒に楽しめる場をつくりたい』とずっと思って歩んできたんです。


競技を知る中でBaseball5がそれを体現しやすいと感じた。ボール一つで小さい子でも、運動が苦手な子でも、老若男女問わずできる。この競技を通じて楽しい場をつくりながら一緒に歩めるのかなと。そう思えたことにワクワクしました」



野球を終えた後に打ち込めるものとすぐに出会い、早速第二の競技人生が22年1月から始まった。


「Baseball5を通じて地域の皆さんや子どもたちと同じ時間を共有したい。その想いで5STARsでやることもそうだし、22年からはこれでいくぞと固まりました」


地域や子どもたちへの想いも今も持ち続けている(本人提供)



「”自分の体一つで勝負する”厳しさを感じた」


新たなスタートを切った22年。最初は「初陣のメンバーと純粋に楽しむところから始めました」と語り、並行してSNSなど自身の言葉で競技の魅力を発信し続けた。


選手としてもここから本格的にBaseball5へと臨むことになるが、実際にボールを扱った時の印象を振り返った。


「第一印象は”自分の体一つで勝負する”という、このスポーツの厳しさを感じました。楽しいのは前提の上ですが、Baseball5はごまかしが効かないなと。


自分の体をどう操って上手に捕れるか・強く打てるか。常にそれを考えながらやることにワクワク感プラス、いい意味での厳しさを感じました。


これは自分次第だなと。やると決めたときは中途半端は嫌だなと思いましたし、沸々と炎が燃え上がっていましたね(笑)」


己の体一つで勝負する厳しさと向き合いながら鍛錬に励む



継続的に活動を続け徐々に仲間が集まってきた中、早くも明確な目標ができた。それは同年の7月に新宿で開催された日本代表決定戦。


翌8月にマレーシアで行われる「第1回 WBSC-ASIA Baseball5 アジアカップ」への出場チームを決めるものであった。


同大会の日本代表は当時チーム単位での選出のため、この大会で優勝する=マレーシアへの切符を手にすることを意味した。


早くも競技への情熱に満ち溢れていた宮之原にとって、合わせて勝負師としての血も騒ぎ立った。


「目標ができてモチベーションがさらに上がっていきましたし、周りにも見せることで『本気でやっている』と伝えやすくなりました。


アーバンスポーツという今の時代に合わせながら、自分たちの個性を出してお互いに尊重し合えるスポーツだと当時から思っていました。


ですので、たくさんの人たちに広める必要があると考えていましたし、日本代表決定戦ではそう意識してプレーしました」


初の大会となった22年の日本代表決定戦で活躍を見せた(本人提供)



「喜びが勝った」国際大会での奮闘


5STARsはこの代表決定戦で優勝を果たし、初代日本代表として国際大会の舞台に立った。当時の心境をこのように振り返った。


「アジアカップは初めての国際試合で何も分からない状態だったので、とにかく目の前の試合に全力で臨んでいました。決勝で対戦したチャイニーズ・タイペイの選手たちは若くて勢いがありました。


結果負けて準優勝でしたが、『次こそアジアを制さないと世界では勝てない』と思ったのと、ワールドカップに行ける喜びの両方でしたね」



そして3ヶ月後の11月には「第1回 WBSC Baseball5ワールドカップ」に日本代表として出場。メキシコシティという世界遺産も見渡せる会場で、歴史を刻む舞台に立った。


「こんなところでプレーさせていただける感謝、あとはボール一つで世界の方々と一緒に高め合える喜びでいっぱいでした。フィールドでは『宮之原健を選んでよかった』と思ってもらえるように、よりアジアカップを超える覚悟と緊張感を持ちながら臨みました」


日本は決勝に進出し、キューバに敗れるも初の大会で準優勝の成績を収めた。ここでも嬉しい気持ちが勝ったという。


「日本代表としてチームを新しくつくって切磋琢磨してきましたし、選手一人ひとりが持ち味を発揮して協力し合うことで、世界の強いチーム相手に嬉しい思いも悔しい思いもしながら決勝まで行くことができた。

そう思うとこのメンバーで準優勝できた喜びが強かったですし、もう一度あの舞台に立ってBaseball5の価値を上げたいという気持ちにさせてもらえました」


この時共に戦った代表メンバーが揃って感じたのが、競技の発祥国でもあるキューバのレベルの高さだった。それは宮之原にとっても同じように感じていた。ただ、その中に強い想いも秘められていた。


「キューバは対戦してて二枚も三枚も上というのは、すぐに感じ取れました。私はそのプレーを目に焼き付けて、『このキューバに勝つ日を必ずつくるんだ』という気持ちを試合前・試合中・試合後もずっと思っていました。


ただ、キューバ以外の国も本当に強かったです。他国の試合も見ていたのですが、純粋に打球が速い!レベル高い!というシーンがたくさんあって。そのチームどことも早く試合をしたい思いでした」



世界で戦える喜びを感じ続けた日々だった



このワールドカップで、宮之原は一つ勲章を手にした。Baseball5のファンを魅了するSNS投稿を行った選手に贈られるソーシャルMVP賞「High5アワード」を賞を受賞したのだ。


競技を始めてからSNSを活用して競技の魅力を発信し、認知度向上にも努めてきたが、改めてその発信力が世界で認められた証となった。


「こんな素敵な競技があることをより多くの方たちに知ってほしい気持ちから、競技の魅力や世界大会の雰囲気を伝えたいと取り組んでいました。


あとは国際大会の日本代表選手としてふさわしい姿勢とプレーを見せたい想いを強く持っていましたので、その二つを含めて評価していただいたのかなと思っています」



初年度から日の丸を背負うなど激動のシーズンを送った22年。ただ、その一方で体は悲鳴を上げていた。翌年は自身そして競技と向き合う一年となる。



(後編へつづく)

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