取材日の9月下旬。
甲子園準優勝から1ヶ月余り。激戦の大会をあと一歩のところまで迫った東東京代表の関東一はまもなく開幕する都大会に向けて調整練習に入っていた。
取材日は文化祭の代休で朝からの練習となったが、午前中に国体に臨む3年生と紅白戦をしたのち、1、2年生が2チームに分かれて紅白戦を行っていた。公式試合さながらの厳しい叱咤激励と互いを称賛する声、チームが一つになろうというのは伝わってきた。
「おめでとうと言っていいか分からないですが・・・といったふうにお祝いの声をいただいたりしますし、すごく地元では応援していただいたみたいで嬉しさはあります。
僕たちとしては(優勝できなかった)悔しさもありますけど、前に進んでいこうという話をしています。新チームに向けて切り替えています」
就任して25年になる米澤貴光監督はそう言ってこの夏の喧騒を振り返る。
決勝戦はタイブレークの激闘の末に涙を飲んだが、この夏の関東一の戦いは僅差で雌雄を分けた試合が多かった大会の中心にいたと言っていい。
初戦の2回戦で好投手2人を擁する北陸を下すと3回戦では名将・馬淵史郎監督率いる明徳義塾に3度目の挑戦で初勝利。
準々決勝では優勝候補筆頭の東海大相模を僅差で勝利。準決勝は劇的な結末の末に2-1で神村学園を破って決勝まで駒を進めたのだった。
「センバツ初戦で負けて5月くらいまではあまりいい状態ではなかったんですけど、6月下旬くらいに夏は行けるんじゃないかと。選手たちには夏の組み合わせを見て、東東京大会準々決勝の修徳高校に勝てれば、チャンスはあるなという話をしました。
修徳の後は二松学舎さん、帝京さんだったんですけど、東東京大会は日程が空くので、今年のチームはそれくらいの相手とやる方がいいチームになるというのはあって、それがいい方向になりました」
関東一甲子園の戦いで目立ったのが堅固な守備力だ。畑中鉄心―坂井遼ら複数で挑む投手陣と二遊間の小島想生―市川歩を中心として鉄壁な守りは洗練されていた。
低反発バット導入後初めての選手権という中にあって、かつてのようなパワー野球ができない現状は、守備をベースに緻密に戦うことの大切さ見せてくれた。二桁安打は初戦の北陸戦のみというのがそれを物語っている。
初戦の北陸戦はエース・坂井が踏ん張った。先発・畠中が1回に先制点を許すと、米澤監督は3回裏に投手に代走を送る勝負手に出た。早い投手交代をした理由を米澤監督はこう明かす。
「北陸高校のエースの子は2年生の頃の神宮大会から見たことがあって、これはいい投手だなと。この夏の福井大会を見てもこれは点が取れないだろうなと。竹田くんが出てくるまでに点差があったら難しくなると決断しました」
早く仕掛けることで試合を動かす。普通では考えられないが、この勝負手で代走に出た選手が1死二、三塁からの浅い犠牲フライで生還。
同点に追いついてさらに1点を勝ち越した。すると4回から登板したエースの坂井は8回まで北陸打線をノーヒットに抑えたのだった。終わってみれば7-1で快勝。これで勢いに乗った。
3回戦では同じようなスタイルの明徳義塾に粘り勝ち。
どちらがミスをするかを待つような我慢比べだったが、明徳義塾がミスをした。「エラーにバントミスに、、、負けるべくして負けた試合」。馬渕監督にそう言わせたが、裏を返せば、関東一はそれをしなかった。
準々決勝の東海大相模と準決勝の神村学園は米澤監督の言葉を借りれば「はめ込んだ」試合だった。打撃能力が高いチームに対して、投手の配球とポジショニングを徹底してヒットゾーンを防ぐという戦略的な戦いを見せた。
米澤監督はいう。
「東海大相模さんと神村学園さんは野手のレベルが大会の中でも2つくらい抜けていましたので、戦略的なミーティングをしました。バッテリーの配球面で相手をはめる。
相手打者のヒットゾーンを守って駄目だったらしょうがないくらい。1mや2mかもしれないですけど、外野のポジショニングも含めてこだわってやりました。大会を通してほとんど思ったように守れることができたと思います」
相手を見て戦い方を選ぶ。守備型なら同じスタイルだと勝負を挑み、逆に攻撃力が売りのチームはこちらの野球に誘い込んでいく。打撃戦で勝負するのではなく得意な形に嵌め込んで勝利していく戦い方は見事という他なかった。
それだけ求めるものが守備において高かった。それができたチームでもあったということである。特にセンターラインは米澤監督の仕込みが効いていた。
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