今年の夏の甲子園を見ていて、ある言葉がやけに目についた。「スポーツマンシップ」だ。
大会中、さまざまな場面がニュースになった。3回戦で仙台育英に敗れた拓大紅陵。34年ぶりのベスト8を目前で逃し、試合後には泣き崩れる選手もいた。それでもグラウンドを去る際、勝った仙台育英の選手たちに「頑張って」「優勝して」と声をかけたという。
決勝では、智弁和歌山が健大高崎のバッテリーミスで勝ち越した場面で、ホームインした選手が喜びを爆発させることなく、静かにベンチへ戻った。その振る舞いに「相手へのリスペクトが素晴らしい」「スポーツマンシップってこういうこと」といった声が寄せられた。
そして試合後の閉会式。優勝した智弁和歌山と準優勝の健大高崎の選手たちが笑顔で言葉を交わす姿が、「真のスポーツマンシップ」として報じられた。
そういえば、大会の始まりも印象的だった。
「高校球児は良い顔をして野球をしよう」
その言葉を発したのは、春夏通じて初出場の八王子実践・矢沢陵磨主将(3年)。開会式での選手宣誓だった。
勝っているときの笑顔だけではない。苦しいときも、負けたときも、それぞれに「良い顔」がある。そんなメッセージから始まった大会で、勝敗を超えた選手たちの振る舞いが、何度もニュースになった。
そして、ふと思い出した。
今年2月のミラノ・コルティナ冬季オリンピックでも同じような光景を見ていた。「真のスポーツマンシップ」、「美しいスポーツマンシップ」、「見事なスポーツマンシップ」、「敬意ある姿」。そんな見出しが競技を越えてメディアに並んでいた。
もちろん、スポーツマンシップは今に始まったものではない。
昔の甲子園にも、オリンピックにも、相手を称えて敗者を思いやり、互いの健闘を讃える選手たちはたくさんいたはずだ。
ではなぜ今、これほど「スポーツマンシップ」がニュースになるのだろう。選手たちが変わったのか。メディアが変わったのか。
SNSによって、以前なら見過ごされていた試合前後の数秒間が可視化されるようになったからなのか。おそらく、そのすべてが少しずつ関係しているのだろう。
ただ私はもう一つ、大きな変化があるように感じている。変わったのは選手だけではない。私たち見る側なのではないか。スポーツを見る私たちが、「何に拍手を送るのか」が変わってきたのではないだろうか。
誰が勝ったか、誰がホームランを打ったか、誰が速い球を投げたか、誰が金メダルを獲ったか。
もちろん、それはスポーツの大きな魅力である。しかし私たちは今、その勝敗の向こう側にある「振る舞い」にも、スポーツの価値を見つけ始めているのではないか。
なぜ、相手を称える姿に心を動かされるのだろう。
なぜ、敗れた選手が勝者にかける一言に胸を打たれるのだろう。
考えてみれば、スポーツというものは、一人では成立しない。最高のゲームをするためには、最高の準備をした自分たちだけでは足りない。
同じように努力し、準備し、本気で勝ちに来てくれる「よき相手」が必要だ。相手が強いから、自分たちも強くなろうとする。相手が本気だから、こちらも本気になれる。
そして、お互いが積み重ねてきた努力と努力がぶつかるからこそ、真剣勝負が生まれる。
観客は、そのすべての背景を知っているわけではない。それでもグラウンドで繰り広げられる真剣勝負から、その背後にある見えない時間を感じ取る。だから、スポーツは人を感動させるのだと思う。
そう考えると、対戦相手を「敵」と呼ぶことに、私は少し違和感を覚える。敵なら、いなくなった方がいい。しかし対戦相手は、いなくなったらスポーツそのものが成立しない。むしろ、強くあってほしい存在である。
自分たちだけではたどり着けない場所まで、自分たちを連れていってくれる存在。だから対戦相手とは、「敵」ではなく、ともに最高のゲームをつくる、なくてはならない「仲間」なのではないだろうか。
もちろん、試合が始まれば本気で勝ちにいく。遠慮など必要ない。相手を打ち負かすために全力を尽くす。それこそが、相手への最大の敬意でもある。
そしてゲームセット。
そこには勝者と敗者が生まれる。でも同時に、互いにすべてを出し尽くして一つのゲームをつくった者同士に戻る。今年の甲子園で高校球児たちが見せてくれた数々の姿は、そんなスポーツの本質を、言葉ではなく振る舞いで教えてくれたように思う。
日本スポーツマンシップ協会の中村聡宏会長が、常々語っている言葉がある。協会が目指しているのは、「いつの日か、この組織そのものが社会から必要なくなること」だという。
スポーツマンシップが特別なものではなく、当たり前になった社会。相手を尊重する。違いを認める。本気で競い合う。そして、競争が終われば互いの健闘を称える。
そんなことが自然にできる社会になれば、「スポーツマンシップを広めよう」と声高に言う必要もなくなる。考えてみれば、これはスポーツの世界だけの話ではないのかもしれない。
意見が違っても、競争する相手であっても、その人は「敵」ではない。違うからこそ気づくことがあり、競い合うからこそ、お互いを高められることもある。
競い合うからこそ、お互いを高められることもある。
スポーツマンシップという言葉が、これほどニュースになる時代。それは、私たちが勝敗の向こう側にあるスポーツの価値に、改めて気づき始めている証なのかもしれない。
そしていつの日か、「スポーツマンシップ」がニュースにならなくなる日が来るとしたら。それはきっと、少し素敵な社会になっているのだろう。
Homebase編集長 荒木重雄

