私は野球の世界で長く仕事をしてきた。
サッカーについては専門家でもなければ、戦術を詳しく語れるほどの知識もない。
それでも近年、サッカーを見る目が変わった。変わったのは、育成という視点である。
中学野球クラブを運営する立場になってから、試合の勝敗やスター選手のプレーだけではなく、その選手がどのような環境で育ち、どのような仕組みの中から生まれてきたのかが気になるようになったからだ。
2026年7月19日(日本時間20日)、スペイン代表がワールドカップ決勝でアルゼンチンを1対0で下し、世界一に輝いた。
決勝戦にふさわしいすさまじい試合だった。
なぜ、スペインはこれほど多くの優れた選手を生み出し続けることができるのか。
その答えは代表チームの戦術やスター選手の能力だけではなく、もっと長い時間軸の中にあるのではないだろうか。
中学野球クラブを運営するようになってから、私は海外の育成システムを調べるようになった。
中でも興味を持ったのが、スペインのビジャレアルとレアル・マドリードである。規模も置かれた環境も大きく異なる二つのクラブだ。
ビジャレアルの本拠地は、人口約5万人の小さな町だ。それでも世界的に評価される育成組織を持ち、多くのプロ選手を国内外のクラブへ送り出している。
一方のレアル・マドリードは、世界中のスター選手が集まる世界最高峰のクラブである。
トップチームには各国を代表する選手が並び、下部組織から昇格した選手が定着することは容易ではない。
それでもレアル・マドリードの育成組織からは、数多くの選手がスペイン国内外のプロクラブへ羽ばたいていく。
規模も環境も対照的な二つのクラブだが、その育成を学ぶ中で私は一つの共通点に気づいた。
彼らは、自分たちのトップチームで活躍する選手だけを育てているのではない。
一人ひとりの選手を、より高いステージへ送り出すことを育成の使命としているのではないか。
トップチームで活躍する選手もいれば、別のクラブで花開く選手もいる。
所属していたクラブに残ったかどうかだけではなく、その選手が自分にふさわしい次のステージへ進み、成長し続けているかどうか。そこに、育成の価値を置いているように感じた。
ビジャレアルが育てているのは、単に「ビジャレアルの選手」ではない。
レアル・マドリードが育てているのも、必ずしも「レアル・マドリードのトップチームでプレーする選手」だけではない。
彼らが育てているのは、未来のサッカー選手なのではないか。
この考え方に触れたとき、私は日本野球の育成についても改めて考えるようになった。
日本の野球には、小学生、中学生、高校、大学、社会人、独立リーグ、プロと、年代やカテゴリーごとに素晴らしい舞台がある。
学童野球や中学野球にも、それぞれ目標となる全国大会がある。高校野球には甲子園があり、大学野球や社会人野球にも、選手たちが目標とする全国大会がある。
これは、日本野球が長い時間をかけて築いてきた、世界に誇るべき文化である。
各年代に明確な目標があるからこそ、選手は努力を続けられる。仲間と一つの目標を追いかける経験は、人間的な成長にもつながる。
目の前の試合に勝つこと、大会で優勝することには、間違いなく大きな価値がある。
一方で、大会の価値が高いからこそ、その大会で勝つことが、いつの間にか各年代の最終目的になりやすい側面もある。
小学生は、小学生の全国大会を目指す。
中学生は、中学生の全国大会を目指す。
高校生は、甲子園を目指す。
その目標に向けて、チームをつくり、選手を鍛え、勝利を目指す。
もちろんそれ自体が悪いわけではない。ただ、育成という視点で考えた場合にもう一つの問いが生まれる。
チームを強くするために、個人を育てるのか。それとも一人ひとりの個人が成長した結果として、強いチームが生まれるのか。
両者は似ているように見える。しかし、育成の起点が異なるのではないか。
チームを起点に考えれば、選手に求められる役割は現在のチームが勝つために必要なものになる。選手個人を起点に考えれば、その選手が5年後・10年後にどのような姿になっているべきかを考えることになる。
今のチームに必要な能力とその選手の将来に必要な能力が、常に一致するとは限らない。
例えば目の前の試合に勝つためには、最も能力の高い投手に多くのイニングを任せた方がよいかもしれない。その選手の将来を考えれば、登板機会や投球数を慎重に管理し、身体を守りながら育てる必要がある。
勝つためには、固定されたポジションで選手を起用した方が安定するかもしれない。選手の可能性を広げるためには、複数のポジションを経験させた方がよい場合もある。
現在のチームにとって最適な判断と、選手の未来にとって最適な判断が異なることは、決して珍しくない。
指導者は常にその間で判断を迫られる。だからこそ、育成には時間軸が必要なのだと思う。
長期育成とは、目の前の結果を求めないことではない。結果が出るまでの時間軸を長く持ちながら、その途中にも確かな成長を示し続けることである。
今日の試合に勝つことも大切だが、今日の勝利がその選手の5年後の成長を妨げてはならない。
反対に「将来のため」という言葉だけで、今の努力や結果を曖昧にしてもいけない。長期的な目標を持ちながら、短期的な成長を積み重ねていく。その両方を成立させることが、本当の意味での育成ではないだろうか。
そのために重要になるのが、選手の成長を可視化することではないか。
近年、スポーツ界・野球界にもさまざまなテクノロジーが導入されている。
体組成をはじめ、球速・回転数・打球速度・スイングスピード・動作解析・走力など、さまざまな要素を測定できるようになった。
以前は指導者の経験や感覚でしか捉えられなかったものが、数値として見えるようになってきた。
データと言うと試合に勝つための分析を思い浮かべる人が多いかもしれないが、育成年代においてデータの最も大きな価値は別のところにある。それは選手自身が“自分の成長を確認できること”である。
試合に出られなかった。
大会で負けた。
打てなかった。
結果だけを見れば、成長を実感できない時期もある。
しかし、球速が上がった。スイングが速くなった。身体が動くようになった。できなかったプレーができるようになった。
そうした変化を見えるようにすれば、選手は自分が前に進んでいることを確認できる。
指導者も目の前の勝敗だけではなく、選手がどのように成長しているかを評価できる。
データは勝つためだけの道具ではない。育成を見える化するための道具でもある。
育成のゴールを遠くに置くほど、その途中の成長を可視化する仕組みが必要になる。スペインサッカーの育成を調べる中で、私が最も学んだのは、勝利を軽視する姿勢ではない。
一人ひとりの可能性を最大限に引き出すことが、結果としてクラブや代表チームの強さにつながるという考え方である。
個人か、チームか。
そのどちらかを選ぶ話ではない。個人を育てるからこそ、チームが強くなる。強いチームの中で競争するからこそ、個人もさらに成長する。
両者を循環させることが、育成システムの役割なのだと思う。
そして、ここから先は日本野球が世界に果たせる役割についても考えてみたい。
日本には、世界でも類を見ないほど充実した野球の育成環境がある。高校野球があり、大学野球があり、社会人野球がある。独立リーグがあり、その先にNPBがある。
全国各地にグラウンドがあり、指導者がいて日常的に野球に取り組める環境がある。これほど多くの選手が、年代ごとに継続して競技を続けられる国は多くない。
日本野球にはすでに世界有数の育成インフラがあるのだ。
だとすれば、次に考えるべきことは「その環境を日本人選手だけのものにしておくのか」ということではないだろうか。
世界には、野球をしたくても十分な環境がない国がある。能力がありながら、優れた指導者に出会えない選手がいる。
国内に高いレベルのリーグや大会がなく、次のステージへ進む道が見えない若者もいる。
そうした選手たちが日本へ来て、高校、大学、社会人、独立リーグなどで学び、競い、成長する。
NPBを目指す選手もいれば、母国へ戻って野球を広げる選手もいる。日本で得た経験を、別の国や地域で生かす選手もいる。
日本が「日本人選手を育てる国」から、「世界の野球選手を育てる国」へ進化する。
そんな未来も描けるのではないだろうか。
ビジャレアルは、人口約5万人の町から世界へ選手を送り出している。それは、育成の可能性が都市の規模だけで決まるものではないことを示している。
大都市でなくても、明確な思想と、それを支える仕組みがあれば、世界につながる育成環境はつくれる。
地方だからできないのではない。地方だからこそ、地域全体で一人の選手を育てる環境をつくれる可能性もある。
私たちが桐生で取り組んでいる中学野球クラブや、野球を通じたまちづくりも、決して地域の中だけで完結するものではないと思っている。
地域で選手を育てる。地域外から選手を受け入れる。そして、そこで育った選手を、より大きな舞台へ送り出す。
その循環をつくることができれば、地方の育成拠点が日本野球を支え、やがて世界の野球を支える存在になるかもしれない。
野球の国際化とは、世界大会を増やすことだけではない。
世界中の子どもたちが日本で学び、日本から世界へ羽ばたける仕組みをつくることではないだろうか。
育成の主役は、チームではない。未来を生きる、一人ひとりの選手である。
個人を育てる。
その積み重ねが、強いチームをつくり、地域に新たな可能性を生み、やがて野球の未来をつくっていく。
日本野球には、その力があると私は思っている。
編集長 荒木重雄

