野球の監督は、なぜ選手と同じユニフォームを着ているのか~「10人目の戦力」から考える、選手主体と監督の役割~

野球やソフトボールの監督は、なぜ選手と同じユニフォームを着ているのだろうか。

サッカーやバスケットボールなど、多くの競技では監督はスーツやジャージ姿でベンチに立つし、ラグビーなどはスタンドで見守る。

それでも、野球やソフトボールの”ベースボール型”競技の監督が選手と同じユニフォームを着て試合に臨む姿には、何か象徴的な意味があるように思えてならない。

そんなことを考えたのは、ある高校野球の監督とこれからの指導について話していたときだった。

近年、「選手主体」「自主性」「考える野球」という言葉をよく耳にする。監督が一方的に指示するのではなく、選手自身が考えて判断することを大切にする。私もその方向性には大いに賛成だ。

ただ、「究極的には監督がいなくても勝てるチームが理想」といった考え方を聞くと少し引っかかる。

そもそも、野球における監督とは何なのだろうか。

「監督が指揮する9人」

公認野球規則1.01には、野球の定義として次のように記されている。

「野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する9人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、1人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行われる競技である。」

英語のOfficial Baseball Rulesでも、“under direction of a manager”と表現されている。

つまり野球は、単に9人対9人で行う競技ではなく、「監督が指揮する9人」同士が戦う競技として定義されている。監督の存在は、競技の構造そのものに組み込まれているのである。

ここから、私は監督には二つの役割があるのではないかと考えた。

一つは、練習時の「育成者」。もう一つは、試合時の「指揮官」である。

技術を伸ばす土台とは何か

先日、東京大学野球部の元監督の話を聞く機会があった。

野球エリートが集う東京六大学野球の中で、東大野球部は高校時代にほとんど無名だった選手たちを中心に構成されている。

それでも入学からわずか1、2年で強豪校と互角に戦い、時には勝ち点を奪うこともある。私は以前から、その成長の背景に大きな興味を持っていた。

元監督はチームの評価基準として五つの項目を挙げた。驚いたのは、その中に野球のスキルに関するものが一つもなかったことだ。

また過日、スピードスケートの元オリンピアンであり、国民栄誉賞を受賞した髙木美帆さんの講演を聞いた。挫折を経て大きく変わるきっかけは何だったのか。そう問われた髙木さんが迷わず挙げたのは、コーチのひと言だったという。

「普段の生活からプロフェッショナルの意識を持って行動しなさい」

こちらもスケートの技術に関する言葉ではなかった。この二つの話を聞いて改めて認識できたこと。それは『優れた指導者は技術を教えることだけを仕事にしているのではない』のだと。

選手が自分で考え、課題に向き合い、日々の行動を積み重ねる。その土台となる意識や姿勢に働きかけることも、指導者の大切な役割なのだろう。

もちろん、技術指導が不要だということではない。むしろ技術を伸ばすためにこそ、選手自身が学び、考え、挑戦し続けられる状態をつくる必要がある。

そう考えると、監督の役割は「答えを教える人」から「選手が自ら成長していくための環境をつくる人」へと広がっていく。

練習では個を育て、試合ではチームを束ねる

練習の目的は、監督の指示通りに動く選手をつくることではない。一人ひとりの選手を成長させることだ。

身体も能力も、課題も成長速度も違う。だからこそ、「何が足りないのか」「どうすればできるようになるのか」「次は何を強化すべきか」を、選手自身が考える機会が必要になる。

もちろん、すべてを選手に任せればよいわけではない。分からないことは教え、必要な助言をし、環境を整えることは大人の役割だ。しかし最初から最後まで監督が答えを与えていては、指示を正確に実行する選手は育っても、自分で判断できる選手は育ちにくい。

一方、試合になれば監督の役割は変わる。

選手起用・投手交代・守備位置・バントや盗塁・相手の戦術への対応。監督はチーム全体を俯瞰し、限られた戦力をどう組み合わせれば勝利に近づけるかを考える。

グラウンドでプレーするのは9人だが、監督もまた勝敗を左右する存在である。私はこれを「10人目の戦力」と捉えてみたい。

もちろん、規則上10人目のプレーヤーという意味ではない。選手とは異なる役割で、チームの力を最大化する戦力という意味だ。

オーケストラの指揮者に似ている

この関係は、オーケストラの指揮者と演奏者に似ているのではないか。

演奏するのは一人ひとりの演奏者である。優れた演奏者は、自分で楽譜を読み、技術を磨き、表現を考える。指揮者の指示がなければ音を出せない演奏者の集団が、理想のオーケストラとは言えないだろう。

ただ、全員が優れた演奏者だからといって、指揮者の役割がなくなるわけではない。

指揮者は全体のテンポや強弱、音の重なりを整え、一つの音楽をつくり上げる。演奏者の自律性と指揮者の存在は、対立するものではないのである。

野球も同じではないか。

自律した選手が、それぞれの判断でプレーする。そのうえで監督が、相手や試合展開を読みながらチームを指揮する。

選手の主体性と監督の采配は、対立するものではなく、掛け算の関係にある。

監督が勝負するためにこそ、選手を育てる

そう考えると、日々の練習の意味も少し変わってくる。

監督が試合で優れた采配をするためには、選手一人ひとりが多くの「引き出し」を持っていなければならない。

バントを仕掛けたくても、遂行できる選手がいなければ選択肢にはならない。

盗塁を狙いたくても、走者に走力と判断力がなければ成功の可能性は高まらない。

守備位置を変えても、選手が意図を理解し、自分で状況を判断できなければ機能しない。

つまり、練習で個の能力と判断力を高めることは、試合で監督が使える選択肢を増やすことでもある。

練習では選手の引き出しを増やす。試合では監督がその引き出しを組み合わせて戦う。

この二つは矛盾しない。むしろ互いを高め合う関係にある。

だからこそ、監督は練習ではもっと選手に考えさせ、試行錯誤する機会を渡してもよいのではないか。そして試合では、指揮官として自らも本気で勝負する。

監督の役割を小さくするのではなく

選手主体の野球とは、監督が何もしない野球ではないと思う。

選手が自分で考え、判断し、行動できるようになること。そして監督もまた、自らの役割と責任を果たすこと。その両方があって、初めてチームとしての力が最大化される。

目指したいのは、「監督がいなくても勝てるチーム」というよりも、「監督が逐一指示しなくても、選手が自分で野球をできる。その自律した選手たちに、指揮官としての監督が加わったとき、チームとして最大の力を発揮する」という姿ではないだろうか。

練習では、個の成長を支える育成者として。

試合では、チームを勝利へ導く10人目の戦力として。

そして選手が野球を離れた後も、自ら考え、学び、成長し続けられるようにすることも、指導者の大切な仕事なのだと思う。

野球の監督が選手と同じユニフォームを着ている理由を、私はまだ十分に説明できない。しかしその姿は、監督もまた選手たちとともに戦う存在なのだということを、私たちに問いかけているように思う。

選手主体の時代だからこそ、監督の存在を小さくするのではなく、『監督とは何をする人なのか』をもう一度考えてみたい。

Homebase編集長 荒木重雄

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