上智大で投手転向し、“独学”で153km/h計測&西武入団へ。正木悠馬がアメリカで養った「自分で考えてやり抜く力」

2025年のプロ野球ドラフト会議では育成枠を含め、合計116人の選手がNPB球団に指名された。

幼少の頃から周囲の注目を集めてきた“野球エリート”たちがプロ入りをかなえた一方、異色の経歴として注目されたのが西武育成6位の右腕投手・正木悠馬だった。スポーツ推薦のない上智大学から初の指名を受けたからだ。

「“上智初”という立場で実力以上に注目されてしまうことが多いので、これから頑張ってそれに見合うような形で結果を出さなければと思います。同時に“初”という立場は多くの人に喜んでもらえてると思うので、しっかり期待に応えられるように頑張っていきたいです」

正木は上智大入学時、野球を続けるかは決めていなかったという。東都大学リーグの3・4部を行き来するチームには投手コーチやトレーナーもおらず、平日に練習をする真田堀グラウンドには照明施設もないような環境だった。

大学から投手を本格的に始めた正木はどうやって独学で最速153km/hを記録するまでになり、プロの世界にたどり着いたのか。

独特な歩みを振り返ると、現代の選手が成長するために大切な要素が浮かび上がってくる。

複数ポジションを経験し、未来の飛躍へ

「スポーツや勉強に限らず、自分で考えてやり抜く力はアメリカで鍛えられたと思います」

正木は水産関係で働く父親の関係で1歳から小学1年生までをアラスカ、中学2年生から高校卒業までをシアトルで過ごした。日本にいれば監督やコーチ、トレーナーに教わりながら上達を目指すのが王道になるのに対し、アメリカで所属したチームは違った。練習では指導者に決められたメニューを行うのではなく、まず選手たちが「これをやりたい」と意見を出し、話し合って決めていった。

「アメリカでは自分から行動を起こさないと、何も始まりません。チームの練習もそういう形が多かったので、考える力も自然と身についていきました」

中1で所属した日本の硬式チームは厳しい雰囲気だったが、中2以降をすごしたアメリカでは仲間やコーチたちと前向きな言葉を掛け合い、「純粋に楽しく、性格的にも合っていた」。そうして主体的に取り組み、向上を求める姿勢が養われた。

守備ではショートやサードを守ることが多かったが、コーチが「今日は違うポジションをやってみよう」と可能性を広げてくれた。そこで正木は初めて投手を務め、後の飛躍につながっていく。

「バッティングや守備は、すべて相手主導で始まります。でも、ピッチャーは自分主導。『こう動いたら、こうなる』というのが、一番わかりやすくて楽しかったです。そのポジションに出会えたことが、今につながっています」

©中島大輔

マルチスポーツで養われた力

俊足や身体のバネなど運動能力が養われたのも、アメリカの環境と関係がある。1歳から小学1年生までをすごしたアラスカは山々に囲まれ、冬になると雪が降り積もり、車がすっぽり隠れるような極寒の地だった。

「当時はそれが普通と思っていて、冬でも半袖で外に出て遊びまわって親に怒られるような子でした(笑)。まだスマホもなかったので、スポーツをするしかないような感じでしたね」

人口約74万人のアラスカではマラソンやトライアスロン、水泳などの大会が開催され、正木は積極的に参加した。舗装が行き届かずデコボコの道を3歳の頃から自転車で漕ぎ回るなど、活発な少年だった。

中2からシアトルに移り住んで以降は、学校では季節ごとに異なるスポーツに取り組んだ。野球は春と夏だけで、秋から冬にはクロスカントリーやバスケットボール、水泳を楽しんだ。

「いろんなスポーツを通じてさまざまな体の使い方をするのが好きで、どれも熱中していました。小さな頃からそういう形でやってきたので、野球でも体を自分の思いどおりに動かしやすくなったと思います」

多様な競技を通じ、いわゆるコーディネーション能力が養われた。

(本人提供)

国際都市シアトルでの学び

一方、勉強では「小学校くらいまで親に厳しくされていた」が、中学から家庭内の方針が変わった。

「アメリカに行ってからは夜遅くまで勉強に付き合ってくれるなど、自分が頼んだらサポートしてくれるという感じでした。勉強もスポーツも自由にやらせてもらっていたのは、“自分から行動を起こせ”というメッセージだったのかもしれません」

アメリカでは自ら動かないと何も始まらない。正木は学校や野球を通じてそう感じていくが、今振り返ると両親も同様に促そうとしていたのかもしれない。

多文化で国際都市として知られるシアトルで中高の5年間を過ごしたことも、正木の人格形成に多大な影響を与えた。

「シアトルにはアメリカ人だけでなく、世界中からいろんな人が集まってくるので文化や信仰の違いがあります。それを経験できて人間的に成長できたというか、より客観的に考えられるようになったのも大きかったです」

高校卒業後の進路は、数年後に両親の帰国が濃厚となっていて、帰国子女のイメージが強い上智を志望した。高校時代にDECAクラブ(※マーケティング、ホスピタリティ、マネジメントのビジネスリーダーや起業家を育成する組織)でスポーツビジネスを学び、興味を抱いて経済学部経営学科を選択した。

入学前に野球部の体験入部に参加したが、大学でも続けるのか答えは出ていなかった。結局入部を決めたのは、偶然の出会いも大きかった。

学科のオリエンテーションの直後、アメリカンフットボール部の勧誘を「部活に入るとしたら、野球部にしようと思っているので」と断った際、後にバッテリーを組む佐々木恵太朗(主将)がすぐ後ろで聞いていたのだ。

「野球やってたの?一緒に入ろうよ!」。佐々木の誘いに正木は頷き、自身でも想像していなかった道が切り開かれていった。

(本人提供)

検索→挑戦→失敗→再挑戦→成長

大学入学当初、プロに行こうとは微塵も考えていなかった。上智の野球部は自主練中心で、純粋に好きだからプレーしている者ばかりだ。正木は「楽しめればいい」と入部すると、アメリカ在住時の延長線上にあるように感じられ、のびのびプレーすることができた。

投手を本格的に始めると、すぐに球速140km/hをマーク。部内では入学当初からトップクラスの身体能力を誇り、秋になると投手陣の一角に名を連ねた。

中3で160cmだった身長は高校生になって急成長し、大学でも伸び続けて179cmに。がむしゃらに投手として取り組むと、2年春には145km/hを計測した。

「チームに『指導者がいない』と言ってもしょうがないし、あまり違和感がなかったです。高校のときとやっていること自体はそんなに大きく変わっていなくて、量を増やしたくらいなので。自分の体がどんどん変わっていくなか、それに合わせながらいろんなものを見つけていかなければいけませんでした。取捨選択がうまいほうではなく、いろんな失敗をしながら、とりあえず試すということをやり続けました」

SNSやYouTube、論文などから情報を探し、自分の感覚と照らし合わせながら投球フォームや体の使い方を模索した。そうして自ら取り組む過程で背中を押してくれたのが、2学年先輩でバッテリーを組んだ大塚勇輝だった。

「大塚さんに『お前は上のレベルでやれるよ』と何度も言っていただきました。卒業後もずっと声をかけてくれましたね。先輩に恵まれて、もっと頑張ればチャンスがあるかもという気持ちになっていきました」

先輩の後押しでモチベーションを高めるなか、どうすればさらなるレベルアップを果たせるか。大きな転機になったのが、大学2年から本格的に始めたウエイトトレーニングだった。

※後編に続く(1月3日公開予定)

(文・中島大輔)

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