南アジアに位置する、スリランカ民主社会主義共和国(以下、スリランカ)。過去、オリンピックやワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への出場経験はなく、野球においてはまだまだ新興国のひとつである。今回、話を聞いたスジーワ氏は、同国の出身で、いまは日本で仕事をしながら、審判員として活動している珍しいキャリアを持つ人物である。スジーワ氏がなぜ、いま日本でキャリアを積んでいるのか。スジーワ氏からみる、日本野球の魅力とは。
母国での普及活動で触れたはじめての野球
スジーワ氏が野球と出会ったのはいまから約20年前のこと。当時の青年海外協力隊の活動に参加したのがキッカケだった。
「日本の青年海外協力隊が、私の通っていた高校に野球普及の活動にきていたんです。私自身、クリケットをプレーしていたこともあって、似た動きの多い野球に興味を持ちました。そうして野球に出会い、高校3年生になるころにはコーチや審判もしていました。野球を教わっていく中で、楽しさはもちろんのこと、相手を思いやる気持ちや、心の持ち方などを学ばせてもらいました」
学生時代に野球に出会い、のめり込んだ。競技人口が少ない中で、審判員にも取り組み、高校卒業後の2005年には、スリランカチームの代表審判員として韓国に遠征。海の向こうでの野球に触れると、翌06年には大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学に入学。そこからより、本格的に審判員としてのキャリアをスタートさせた。

(写真:本人提供 立命館アジア太平洋大学の学生時代のスジーワ氏 上段左から5番目)
「日本の青年海外協力隊が、私の通っていた高校に野球普及の活動にきていたんです。私自身、クリケットをプレーしていたこともあって、似た動きの多い野球に興味を持ちました。そうして野球に出会い、高校3年生になるころにはコーチや審判もしていました。野球を教わっていく中で、楽しさはもちろんのこと、相手を思いやる気持ちや、心の持ち方などを学ばせてもらいました」
学生時代に野球に出会い、のめり込んだ。競技人口が少ない中で、審判員にも取り組み、高校卒業後の2005年には、スリランカチームの代表審判員として韓国に遠征。海の向こうでの野球に触れると、翌06年には大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学に入学。そこからより、本格的に審判員としてのキャリアをスタートさせた。
「07年に宮崎県で行われたプロアマ合同審判講習会に参加したんです。そこで、アジア野球の審判長だった麻生紘二さんに出会い、ルールの解釈についてなど、英語でもやりとりをさせていただきました。そうしたやりとりが続く中で、『勉強するだけではなく、実際にグラウンドに立とう』という風に言っていただいて、別府市の野球連盟に所属することになり、少年野球の審判をさせてもらいました。ここが私の人生のターニングポイントでした」
重み、責任感があるからこそのやりがい
07年にあらためて審判員としてのキャリアがスタート。大学を卒業後は福岡県内の企業に就職し、土日は別府に戻って審判員として活動をした。07年に出会った麻生さんが、九州の社会人野球審判長の神内さんに『いつかアジアの審判を任せる人間になってほしいから面倒をみてほしい』とお声がけいただいた縁もあり、高校野球や大学野球、社会人野球の現場でキャリアを積んだ。必死に取り組んできた結果、2015年には外国人の審判員として初めて、高校野球の春の選抜大会の舞台も経験。いまもなお、アジアの野球の最前線で活動を続けている。

(写真:本人提供 2015年の選抜高等学校野球大会の時の様子 審判団の一番手前がスジーワ氏)
「審判員の活動を通じて、いろいろなことを学ばせてもらっています。一生懸命練習をして試合に臨んでいる選手たちが、我々審判員のせいで野球を楽しめなくなってしまうことのないように、こちらも負けないように練習しています。過去に台湾にいったときに、審判室が『裁判室』と書かれていました。あくまで言葉の違いではありますが、私はしっかりと判断して物事を決めなくてはいけない立場という意味で、この言葉がたしかに正しいと感じました」
強い責任感を持ちながら、試合に臨むこと。この緊張感と重圧こそが、審判としての充実感につながっているとスジーワ氏は語る。審判員として日本の文化に触れたスジーワ氏は、誰よりもその重みを感じていながら、そこに魅力を感じている。ここに、今後のさらなる野球普及のヒントがあるかもしれない。

(写真:本人提供)
スジーワ氏は語る。
「審判員は安心感を与えられる存在だと思います。海外に比べ、日本は特にそう感じますね。私も試合に携わる人たちに安心感を与えるのが仕事だと思っていますし、スピーディーに、無駄をなくすことを心がけています。そういった部分は日本がとても優れていると感じます。いま、日本では若い審判員の方が少ないというのが問題になっています。やりたくてもやれない人もいると思うので協力する人を増やしていきたいです。審判として甲子園に行くなどの夢を持つ事もでき、人生の考え方も変わります。私はまさにそうでした。日本の考え方をアジアの各国に持って行って、アジアのトップになり、コントロールできるような審判になりたいと思います」

(写真:本人提供 国際審判員として活動をするスジーワ氏 一番右)
日本における競技人口の減少ばかりを嘆いていては未来がない。日本から、アジアへ野球の文化を――。スジーワ氏は、その最前線で活動を続けていく。かつて、自分が魅せられた野球への愛を胸に。
(了)

