「監督がいない野球部」から「唯一無二」への改革 母校で “10年神宮プラン”を結実(鹿屋体育大学・藤井雅文監督)

(サムネ写真:鹿屋体育大学硬式野球部より引用)

 神宮で「カノヤ」が躍動した。2023年の全日本大学野球選手権大会において、九州の国立大として初の神宮勝利、続いて強豪近畿大学を破って神宮2勝を挙げた鹿屋体育大学。初出場ながらベスト8進出し、大学野球に新風を吹かせた。準々決勝では白鴎大学に1点差で惜敗したものの、最後まで諦めずに追い上げるチームワークや、溌溂とした選手たちの姿が話題となった。

 日本で唯一の国立体育大学で、スポーツ推薦のない野球部が果たした全国ベスト8。部を率いた藤井雅文監督に、これまでの改革と指導について聞く第1回。以前には部員が足りず活動休止だった時期もあり、さらには「監督」や固定の指導者が不在だったという。自身も卒業生である34歳の若き監督が挑んだチーム改革を語ってもらった。

スポーツ推薦なしの国立体育大学野球部

 スポーツ推薦のない鹿屋体育大学では、野球をやりたい受験生が野球で受験することが出来ない。受験制度の関係で野球部に希望者が集まらなくなり、活動休止した時期があったという。藤井監督が鹿屋体育大学に入学した2008年当時、野球部は活動休止から復活した後だった。

「私が入学した時には各学年10人くらいいて、野球は一応出来る状態でした。ただ監督がいなくて、基本は自分たちで采配とか選手起用とかをやっているチームでした」

 体育を専門に研究する大学とはいえ、当時から野球をやるのに適した環境があったわけではない。藤井監督の入学当時は設備も整っておらず、また野球が授業の種目ではないため、野球を専門的に指導出来る指導者もいなかった。

学生時代は主将を務めていた藤井監督

「鹿屋って真剣に野球をやってないでしょ」と言われて奮起

 藤井監督が鹿屋体育大学を選んだのは、いずれ野球を指導する体育教師になりたかったからだ。大学時代は、母校で監督をしようとは思いもしていなかった。帰ってくることになったきっかけを、監督はこう話す。

「卒業してから3年間中学校の教員をやっていました。ご縁があり、野球界の色々な方が集まる席に呼んで頂いたことがありました。そこで『鹿屋体育大学出身です』と言ったら、『鹿屋って真剣に野球やってないでしょ』と言われたんです。自分でサインを出しながらキャプテンをやっていた時期もあったし、私なりには一生懸命野球に取り組んでいたつもりだったんですけど、世の中の評価というのはこんなもんなんだと思って、悔しさとみじめさで何とも言えない感情になりました」

 そこから、「変な正義感スイッチ」が入ってしまい、鹿屋体育大学の監督になろうと思い立つ。後輩たちにこんな思いはさせられない。その一念だった。そうはいっても簡単に大学の監督になれるものではない。まず高校野球の監督をして、実績を作ってからと思った。「こんなビジョンで大学に戻ることが出来ますか?」と野球部長の前田明先生に相談した。その時ちょうど鹿屋体育大学に「スポーツパフォーマンス研究センター」の設立決定し、野球の分析・研究が出来るようになるタイミングだった。

「今戻ってきて、大学院で勉強しながら監督をやってみないか」前田部長はそう誘った。

 本格的な施設も出来る折、前田部長も野球部の体制を整えたいと思っていたのだ。「ちょっと早すぎる」とは思ったものの、自分にやれるところまでやってみようと決断した。2014年、母校の大学院へ。修士課程・博士課程と勉強しながら監督を始めた。

「10年神宮プラン」を引っ提げて改革開始

 長い間ほぼ学生だけで運営していた野球部に就任した藤井監督は、まず「10年神宮プラン」を引っ提げ、「自分の思う通りにやらせてください」と部長からの了承を得て乗り込んだ。自分たちの時代には、夢ですらなかった「神宮」へ行く。具体的なプランを掲げての野球部リスタートだった。

「『10年神宮プラン』の内容は、部員数がこんな風に増えていくとか、成績を上げていくとか、社会との関わりをこうやっていくというようなざっくりとしたもので、毎年テーマを決めていました。1年目は『始動』、2年目は『積み上げ』、3年目は『形』、4年目は『強化』、5年目は『成果』、6年目は『我慢』…。そのワードに沿って強化したり、色んなことを変えたり、形にしたり、イメージを決めて入りました」

 1,2年目の改革は、最も困難なものとなった。藤井監督も「あれをもう一回やれと言われたら、ちょっと嫌ですね」と振り返る。監督もいなく選手たちの考えで動いていた野球部を、一から作り直すことになった初日。グラウンドに行っても誰も挨拶をしない。「この人は誰?」というような尖った雰囲気。「ちゃんと練習する」という文化もない状態だった。

監督就任当初は苦労も多かったという。背番号30=藤井監督

「泊まり込みで1週間、研修所にぶち込んで、朝から晩までずっと練習したり、僕らがここで野球に取り組む意味を語ったり、野球界に何を発信する集団か訴え続ける。そうやってマインドセットをするのは、かなりエネルギーが要りましたただ、幸運だったのは、当時のキャプテンを中心に素直で真っ直ぐな学生たちばかりで、一緒になって野球部の改革に取り組んでくれました」

 ラプソードなど、結果が数字で出る機器もなかった時代だ。たくさん練習してもなかなか勝てず、モチベーションを保つのが困難でもあった。年を重ねる度に学生たちのマインドセットも変わっていき、チームの目標や雰囲気も徐々に変わり、結果に結びついてくる。鹿児島県秋季リーグで20年ぶりの優勝を果たしたのは2017年のことだ。そこからは常に県で優勝を狙うチームとなり、南部九州ブロックの覇者となって、全国への扉を開いた。

授業で学び、研究する野球

 掲げたビジョンの第1フェーズ、第2フェーズ、第3フェーズと段階を踏み、内外へ働きかけつつ改革は進められた。専用野球場をより良くするためにどうするか、野球を授業にするためにはどうするかなど、作戦を考えて行動することで、大学内での野球の立ち位置も少しずつ変わっていった。中でも「野球を授業にする」という取り組みは、大きな特徴だ。鹿屋体育大学では、野球論を授業で学ぶことが出来る。

「これまでも、野球以外はずっとあったんですよ。陸上とか水泳とかサッカーとか。野球はずっとなくて、授業があったら色んな事ができると思ってました。部活動のミーティングだけでは伝えきれないし、いろんな活動にも制限があるので、授業が出来るようになることをずっと願っていました。やっと授業が開講され、自分が思ったことがさらに加速度的にやれるようになった感じです」

 野球には覚えるべきルールも、可能となる作戦も、数限りなくある。マネジメントで変わる組織的競技でもある。個人が知識を得て使うために、またチームが意志疎通を計り、目標に向かうため、座学は重要な時間となる。それを授業として扱えれば、各々が時間をかけて研究し、生かしていくことが出来る。まず体を整え、野球の技術を磨く環境を整え、さらに思考力を養い、研究と実践にまで繋げていく。「自分で自分を成長させる」のが鹿屋体育大学の掲げる野球だ。

 藤井監督の10年計画では、2014秋-2015春シーズンを1年目とし、2022-2023シーズンは「9年目」に当たる。10年に満たない期間で「神宮」出場を成し遂げたことを、監督は「出来過ぎ」と謙遜するが、見事な結実に間違いはない。学校を変え、野球部を変え、学生たちの意識を変えて成長を促してきたことが、「神宮2勝」という成果に結びついた。

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