春夏合わせて37回の甲子園出場を誇る日本大学第三高等学校(以下、日大三高)硬式野球部。その歴史の中で、夏の甲子園大会2回の優勝を成し遂げた名将・小倉全由監督が、今年3月の教員定年をもって同校野球部監督を勇退した。
日本大学在学時の学生コーチ時代から、40年以上に亘って勤めてきた高校野球の指導者生活は、小倉さんにとってどんな時間だったのか。今回は後編をお届けする。
大学4年間を母校・日大三高で学生コーチとして過ごし、縁あって、24歳から関東第一高等学校(以下、関東一高)硬式野球部の監督に就任した小倉さん。無意識のうちに自らに染み込んでいた”三高野球”にこだわることなく、良いと思っていたものをどんどん取り入れ自分だけの指導方針を模索していくことになった。
小倉さんは、『お前らついて来い!』と部員たちと当たり前のように一緒に走り、体を動かす。自らが実践して見せることで、部員たちとの一体感も生まれた。自らも成長して行った結果、就任3年目には地区大会決勝に進出。5年目の1985年夏には甲子園初出場でベスト8入りを果たし、1987年春にはチームをセンバツ準優勝にまで導いた。
この“一緒に体を動かす”指導スタイルは関東一高時代から勇退するまで貫き、小倉さんの代名詞となった。さらには選手寮に住み込み、部員たちを寝食も共にするなど、家族以上に同じ時間を過ごし、同じ目標に向けて突き進んでいく。昼夜を問わずとことん寄り添う指導スタイルは、どうして生まれたのか。
「高校を卒業して、すぐの学生コーチだったので、昨日まで一緒にやっていた選手たちと一緒に走るのが当たり前の感覚だったんですよ。昨日まで一緒にやっていた下級生に対して、大学行って学生コーチになったからって、自分だけ腕を組んでなんてことはねぇ・・・。高校、大学と寮生活でしたが、高校の時に教わった小枝監督も、学生コーチの時に寮に泊まる生活で、それをみていた自分も寮に泊まるのが当たり前だったんですよね。1度、日大三高で2001年に優勝した時、学校の方でマンションを借りてくれるという話しがあったんですが、寮生活で良いと断っちゃったんですよ。そのあと誰も言ってくれなくなったんですけどね(笑)。でも、今思えば、あの時借りて貰わなくて良かったなって思っています」
部員と共に寮生活を送るスタイルは、一度監督業を離れ、再び戻ってきた後も、その後母校・日大三高の監督に就いてからも貫き続けた。年が経つにつれ、部員たちとの年齢差は広がっていくが、ジェネレーションギャップを実感するような瞬間はなかったのか。
「『この頃、選手とのギャップをやけに感じるが、小倉監督はどうやって埋めているんですか』って、若い監督なんかにも言われることがあったんだけど、俺にはないんだよね。だから、そういうギャップとか、溝とかっていくのは、結局誰が作っているのかって言うと、大人側が作っているんじゃないかって思うんですよ。16歳~18歳の子どもたちと、毎年付き合っていくわけだけど、自分から降りていけば別に何でもないわけで。だから(定年になった)65歳まで、そうしたものを感じたことはないですね。廊下でも『どうだ調子は?』なんて、常に声をかけるし、飯も一緒に食べて、風呂も一緒に入るから、自分にはそういうのはないですね」
選手と指導者の間に生まれる溝は大人が作っているもの
この選手と指導者の間に生まれる溝について、小倉さんはさらにこう続けた。
「夏の大会前になってくると、選手たちが一生懸命やっていたって、負けが込んでくることもあるじゃないですか。そうすると指導者は簡単に『お前ら、やる気あるのか?』って言うようになりますよね。でも、選手たちは負けようと思ってやっているわけないですし、頑張っているわけですよ。そこで『やる気あるのか』って言われたら『ふざけんなよ!』ってなっちゃいますよね。自分も学生のときそう思いましたしね」
実際、指導者になってから、こうした局面にぶつかった時、やはり「やる気あるのか」と言いそうになったことはあったと言う。
「その時、ちょうど大学生が練習に来てくれていて、終わった後にメシを食いに行ったんです。そこで『あいつら、この夏はもう遊びたいんだろ?』って聞いたら『いや、監督と1日でも長く野球をやりたいって言ってます!』って、教えてくれたんです。『ああ、言わなくて良かったな』って思いましたよ。そこでやっぱり、『溝って大人側が作っているものだ』って思ったんですよね。一生懸命やっている選手たちには、その一生懸命やっていることを認めてやらないといけない。『やる気あるのか』って言うのは、大人側の自己満足です。選手たちが良い顔をしていない時って、やっぱり監督がブスっとしてやってますもんね」
『やる気にさせられるかどうか』が、やっぱり指導者としての器
どんな組織においても悪い空気は伝播する。多くの方が経験していることではないだろうか。しかし、良い空気も同様に周囲に広がるものだと、小倉さんは考えている。
「昔、寮から家に帰る時、高速の料金所でお金を払ったあと、係の人がお釣りを出すのが遅くて『急いでくださいよ!』なんて、怒鳴っちゃったんですよね。そうしたら『三高の小倉監督じゃないですか!』って言われちゃって、赤っ恥を掻いてしまった。誰が見ているかわからないなって思って、それからは日本一明るい運転手でいようと心に誓って、どこでも『こんばんは!お疲れ様です!』って声をかけるようにしていたんです。料金所の人には驚かれたりしましたが、ある日『気をつけてお帰りください』って声をかけられたんです。そうしたら、今まで疲れていた自分が、家までの2時間の運転が気分良くなったんですよね。そんな話を選手たちにもしたんですけど、選手たちもいい挨拶をするようになるんですよね」
そして、こう続ける。
「そういう良いやり取りの中で、選手との信頼関係が出来てきたのかなと。技術の部分は正直言って、全国の監督さんみんな、そんなに間違ったことは言ってないんじゃないかと思います。Youtubeなんかを見て「それは違ってるな」っていうのもありますけどね。でも、バットを振るのは人間だし、それが変わるわけじゃないじゃないですか。教えていることは一緒なので、その前の『やる気にさせられるかどうか』が、やっぱり指導者としての器だと、自分は思いますね」
選手たちと同じ目線に立ち、常にコミュニケーションをとりながら、一緒になって同じ目標を目指していく。ただ、言うべき時にはしっかり叱ることも忘れてはいない。
「ダメなものは、顔を真っ赤にして真剣に叱ります。いい加減なことをしていたら『テメェ!何やってんだ!』って。ただ、今の子どもたちは周りの大人の配慮もあって叱られ慣れていないところもあるので、あんまり叱ってしまうと元気がなくなっちゃう子もいます。だからそういうことがあったら、その日のうちに解決するようにしていました。練習中に叱ったあと、寮に戻ってから部屋に呼んで、『グラウンドで俺に言われているようじゃダメだぞ』って、1対1で話しをしますね。甘いものを食べさせながら『期待しているんだぞ』って。そうしてしっかり話をすると部屋を出ていく時には、みんないい顔になって出ていきます。だから、叱りっぱなしと言うことはしなかったですね」
今も昔も子どもたちの本質は同じ
長年の指導者生活の中で、多くの高校生たちと接してきた小倉さん。時代の変化に伴い、部員たちに変化はあったのか。
「今の子たちって教わっていないだけで、頑張るってことがどういうことなのかとか、我慢するってどういうことなのかっていうことをわかっていないだけで、教えてやりさえすればいいだけだと思っています。だから自分は、今も昔も子どもたちの本質は同じだと思うんです」
子どもたちの本質は同じである。関東一高での監督1年目から、勇退する今季まで欠かさず行ってきた冬の強化合宿。そこで毎年見てきた部員たちの姿から小倉さんはそう感じていた。
「冬に強化合宿を2週間やるんですが、1年目のときの選手たちも、今年の三高の選手たちも最終日の涙は同じなんですよね。日大三高の時には25人を選んで連れて行くんですが、初日のミーティングで選手たちに好きなように今思っていることを書かせるんです。『小倉の野郎、こんなことやらせやがって!』とかでもいいからって。それで3日目に『どうだ?気持ちの変化はあるか?』と声をかけて、合宿の中盤には『どうだ?ゴールは見えてきたか?』とか『最終日の最後を夢見て寝ろよ』と話しながらやっていくんです」
すると、合宿が終わりに近づく頃には、選手たちの反応が変わっているのだと言う。
「最後の3日間あたりになると、『ここまできたんだから絶対負けねぇ』とか『やり切ってやろう』って、みんなギラついてくるんですよ。それで最後の日の練習が終わったら、抱き合って泣いているんです。その光景って、30年前も今の選手も同じなんですよね。だから『自分たちが頑張ったんだ』ってことを教えてあげれば『ああ、これか』って、みんな覚えるんですよ。監督の中には『今の若いやつはダメだな、根性なくて』なんて言う人もいますが、教えてあげればそんなことはないと思います」
小倉さんの話を聞いていると、とにかく選手たちのことを信頼していることが伝わってくる。寮に寝泊まりし、多くの時間を共にしていることもあると思うが、選手たちに遠慮することなく、どんな時にもしっかり対話し、家族のように選手たちと接していることが大きいと感じた。
「『正直でいなさいよ』と、選手たちには良く話すんですよ。この正直って言うのは、『人に対して嘘をつかない』と言うことではなくて、『自分が決めたことに対しては、誰かが見ていなくったってやり切る』ってことが、正直ってことだと思うんです。自分で一生懸命やったら、自分にプラスになって返ってきますし、いい加減にやればマイナスになって返ってくる。だから何事も一生懸命やらないといけないよと。練習だけではなく、生活も、学校の勉強も。俺は力を抜くのは嫌いだなって」
人から頼まれて始めた学生コーチの仕事を真摯に、真剣に向き合ったことで、道が拓けていった小倉さん。物事に対して誠実に向き合うことが、当たり前になっているからこそ、選手たちにその大切さを伝えるのは自然なことだった。
「正直言って、レギュラーになれない子だっています。でも、一生懸命やっていれば、親やみんなが応援してくれる。好きな野球を一生懸命やって、みんなが応援してくれるんだから、こんなに得なことはないし、幸せなことはないだろうって。その幸せを感じてやらなきゃなって、選手たちには良く話していましたね。好きな野球なんだから、力を抜いたら馬鹿じゃないのかってね」
毎年、選手たちと共に一生懸命練習して、目指していた場所『甲子園』。何度もその土を踏んだ小倉さんには、そこに行くために必要なことは見えているのだろうか。
「自分が高校生だった時は『高校野球は甲子園が全てじゃない。人間形成の場なんだ』って、言われていました。でも中学から甲子園を目指して高校に入ってくるわけだから、自分は『目指せ甲子園』でいいと思うんです。でも、甲子園を目指す過程でやっぱり人間ができていくんだよって。自分はそれでいいと思うんです。みんなで甲子園を目指して、そこで人間的に大きくなって、成長して初めて甲子園をつかめるところにくる。技術ももちろん大事なんだけど、やっぱり心も一緒に育てていかなかったら、行けないと思いますね」
「三高で野球をやれてよかった」というチームを選手たちと一緒になって作っていくのが高校野球の一番大切なこと
最初から目指していたわけではなかったと言う高校野球の指導者生活。結果的には、家族といる以上に選手たちと同じ時間を過ごす生活を40年以上続けることとなった。定年まで勤め上げた高校野球の指導者人生を、小倉さん自身はどう捉えているのか。
「自分には、野球しかなかったんですよね。監督になったばかりの頃は『なんで俺、野球なんかやってんだろう』って正直思ったこともあります。子供もできて『こんなんだったら、土日休みのある仕事をやったほうが良かったよなって、そんな時もありました。でも、選手たちと一緒にやっていきながら、試合に勝っていくことで良さがわかってきて。成功体験が大きくなっていったんですよね。だから選手たちも育つんだけれども、自分もいい思いをさせてもらった。負けている試合のほうが多いんだけれども、そういうところに取り憑かれちゃうんですかね、高校野球の監督って」
そして、こう続ける。
「やっぱり野球をやりたくて、野球部に来ている子たちだから『やり切った』っていうことは、教えてあげないといけないし、『三高に来てよかった』っていうのを作ってやらないといけないんですよね。甲子園に行けないことのほうが多いんですが、それでも、甲子園に出る以上に『三高で野球をやれてよかった。小倉監督の元でやれてよかった』って言ってくれる。そういうチームを選手たちと一緒になって作っていくっていうのが、やっぱり高校野球の一番大切なことなのかもしれないですね。甲子園以上にそっちの方が素晴らしいことだと、自分は思いますね」
小倉さん自身は、高校野球の監督をやりきれたのか。そう尋ねると迷わず「やり切りました」と即答してくれた。
「みんなには『監督、次またどこかでやるんじゃないですか』って、言われるんですが、俺はもうやらない。それと、途中で解任されることもある中で、今回は自分で上がる(退任する)ことを決められたって言うのが、嬉しさみたいなものもありますね。この上がり方って言うのは、自分では納得していますし、寂しいとかは何もないですね。『監督、このあとどうするですか?』なんて言われるけど『俺は、上がってからのほうが楽しみだな』って言う気持ちですね」
野球は楽しいものだと伝えていきたい
小倉さん自身、楽しみだと語る今後について、少しだけ予定が決まっているのだという。
「高野連から、指導者育成というか、そういうところで力を貸して欲しいと話は来ています。あとは野球が面白いもの、楽しいものだということを、子どもたちに伝えて行かなきゃいけないと思うんですよね。今は少年野球を見ても、間違った指導もいっぱいあるじゃないですか。指導者が怒って、叱りまくっているようなところとか。そうではなくて、子どもたちに本来の野球の楽しさを教えてあげられるようにしていきたい。あとは子どもの場合、体格差で能力に差が出てしまうことがあるので、小さい子でも、成長したら面白くなっていくんだってことを教えていかないと、体力の勝っている人間だけが残って、素質があるのに続けていけなくなるようなことが出てくる。勝利至上主義じゃなくって、やはり子ども一人ひとりが、いろんなスポーツを体験できて、その上で野球が楽しいって思えるような環境を作ってあげたいって思います」
高校野球の監督としてはやり切ったと語った小倉さんだが、最後の話から、子どもたちに野球の楽しさを伝えたいという思いの強さが伝わってきた。
「俺には野球しかない」。2時間を超えるインタビュー中でそう話していた小倉さん。関わり方は少し変わってしまうかもしれないが、野球指導者としての人生はまだまだ続いていきそうだ。

