(蒲田女子高校時代に日本一になった時の様子 岩男さんは上段左から2番目 写真:本人提供)
4月3日に全国高等学校女子硬式野球選抜大会の決勝が大会史上初めて東京ドームで開催された。昨夏には全国高等学校女子野球大会の決勝も阪神甲子園球場で開催されるなど、女子野球の社会的地位が変化をみせている。今年に入り弘前学院聖愛(青森)など、続々と女子硬式野球部が創部され、女子野球の輪が広がり続けている。それはプレーする選手だけに限らず、審判の世界でも同じ。2019年夏にデビューした神奈川県野球連盟所属の審判員・岩男香澄さんもそのうちの一人である。自身も女子野球経験者の岩男さんがなぜ審判員の道を選んだのか?また現在の女子野球の広がりをどのように感じているのか、話を伺った。
神奈川県横浜市出身。岩男さんにとって幼少期から野球は身近な存在だった。「父が草野球していて、一緒に遊んでいたボールが野球ボールだったよという話を大きくなってから聞きました」。小学生の頃には地元の少年野球チームに所属。ランドセルにグラブを入れて授業が終わると公園で友達と野球をして遊ぶという野球漬けの日々を過ごしていた。
中学では女子硬式野球チームのオール京急に所属。当時は女子野球のチーム自体が少なく「小学生に混ざってリーグ戦に出ていた」というほど。女子野球チームの大会は1年に1つか2つ程度だった。「女子の野球選手は少なくて部活(男子野球部)に入るのがどうかなっていう時代だった。男子のチームではなかなか試合に出られない時代でしたし、それなら女子のチームに入って全国目指して戦っていきたいという気持ちがあった。」と高校は蒲田女子(東京都)に進学。
今でこそ全国高等学校女子野球連盟に所属する学校は40校を超え、全国大会も約30校がトーナメントで争っている。しかし、当時は全国大会ですら出場チームは10校に満たなかった。「トーナメントにするとすぐに終わってしまうので、AブロックBブロックに分かれて総当たりをして、上位2チームが勝ち上がると言った感じだったと思います」。岩男さんは2年春に全国制覇も経験し、選手としての野球生活は高校生で一区切りすることに決めた。選んだのは審判員への道だった。「小学1年から高校3年までプレーヤーでしたが、(現役の)最後は肘が痛くて塁間も投げられなかった。そこで選手じゃなくても野球に関わりたいと思った時に父も審判やっていて私自身も興味があったということもあり審判の道に転換しました」
父も審判員 グラウンドに立つには試験突破が必要
岩男さんに大きな影響を与えた父・昇治さんは現在も草野球チームでプレーしながら神奈川県野球連盟所属の審判員として活動。毎年夏になると忙しそうに審判員の道具を車に積んで球場へ向かう父の姿が印象に残っていた。父の背中を追って飛び込んだ世界で、右も左もわからなかった岩男さんに女性審判員の先輩たちが熱心に寄り添ってくれたという。「当時藤原(三枝子)さんという方がいらっしゃって。女性でもやっていけるようなところだよとか仕事と両立してるということとか、家庭と両立しながらでもやっていけるよということをお話しくださいました」
神奈川県野球連盟所属の審判員として公式戦を務めるには、三年間の育成期間を経て実技試験と筆記試験に合格しバッジを貰う必要があり、岩男さんもオープン戦で経験を積み、講習会にも積極的に参加して試験を突破。2019年夏に公式戦デビューを飾った。
看護師との二刀流も一番は「選手をがっかりさせたくない」
現在は看護師として働きながら、月に5日ほど審判員として活動している。仕事がない日にグラウンドに行くことで日々が充実していると岩男さんは話す。「仕事が無くグラウンドに行ける日に審判として活動することが私自身の為にもなるし息抜きにもなる。私はアマチュアの審判なので審判でご飯を食べている訳ではないです。あくまで、仕事があって生活があって審判がある。メインは生活と仕事だけれども、もう一つのピースとして審判を両立させたいなっていう風に思っています。」もちろん審判が本業ではないとはいえ、選手たちの一生懸命なプレーを左右する大事な責任を負う重要な仕事である。
「プレッシャーはすごいです。選手をがっかりさせたくないので日頃の試合は課題をもってやるようにしています」と岩男さんは語った。

